皆がサクラと呼んで敬うあの樹が、彼には怖くてたまらなかった。 本で知る「サクラ」の花は、あんなに赤々とした色はしていない。 際限なく大地を貪るように伸びゆく根は、かつていくつかの家を破壊したとも言う。 しかしそれ以上に彼が恐れていたのは、村の皆が皆、疑いもせず恐れもせず、ただあのサクラを信仰している、そのことだったのだ。 まさしく妄信である。 自分は集落でずれていると認めながらも、彼は自分が常識から外れてはいないと信じていた。だからこそ、あのサクラが恐ろしく、それ以上にそれを信仰する周囲が恐ろしかったのだ。 ――サクラの樹の下には そんなジョークをひとつの作品に仕立てた文学者は誰だったか。 しかし彼は確信していた。この村のサクラ信仰とでも言うべき伝統において、死者は灰ではなく土へ還る。弔う方法は火葬ではなく土葬であり、共同墓地はあのサクラのそばだ。 そう。 サクラの花があんなに赤いのは、その下に死体があるからだ――。 彼が生まれたのはかの文学者が死した後であるため、文学者がこの村を訪れたかどうか彼にはわからない。しかし文学者の諧謔を文面の通りに当てはめられる場所など、ここ以外に存在しまい。 長老によれば、サクラに還るのは名誉だという。あの樹は楽園へ通じていて、この地を守り、楽園への入り口を守るのが我々の務めだという。そして守り続け逝くとき、その勇志を称え、彼らの魂はサクラの中を通って楽園に送り出されるのだと。 彼にしてみれば、それは恐怖であった。 サクラの花があんなに赤いのは、その下に死体があるからだ。 ならばそれだけでサクラの花が赤くなるのか。 否だ。 あの樹は、死者の魂を楽園に送り届ける扉などではなく、死者の魂すら貪る怪物なのだ。 それが彼の持論であり、恐怖から生まれた連想だった。しかし事実として、百数十年以上にわたってサクラは成長を続けている。数ヶ月前にも、その根が村のある家族の家を食い破った。その数日後、逃げるようにその家族は村を離れたとされている。確かに家財道具などは何も残っていなかった。 だが、彼はこうも考えてしまう。この妄信者の村ならば、根が家を食い破るのは託宣であり、住まう者が楽園に至るだけの信仰心を備えているか、サクラに宿る審判者――「神」の怒りに触れるほど信心がないか、そのどちらかをサクラが告げているのだと、そう考えるものがいてもおかしくはない。事実がどうであれ、彼の被害妄想じみた託宣の中身が正しいとするならば、前者は全く問題がない。妄信者が妄信者を確認するだけである。そしてサクラがかの家を選んだのだと告げられれば、楽園へ渡れると嬉々としてその命を捧げかねない。 問題は、後者だった場合であろうと彼は思う。 容易に連想されるのは――贄。 サクラを信仰しないということはこの村において罪であり、それは裁かれなければならない。狂信する長老などはそうしたがる筆頭だろう。その血肉はサクラに捧げられる。不信心者が犯した失態によって、他の信心深い者が楽園に至る道を閉ざされてしまわないように、不敬者の血肉を謝罪の証として捧げるのだ。 彼がそう思いつめてしまうほど、村のサクラを疑う人間は少数派だった。 では、なぜ彼は村から出て行けないのか。 まず第一には、この村は深い森の一部になっている。不用意に村の外へ出たが最後、野垂れ死には大いにあり得ることである。 第二に、彼は外の世界を知らない。文学者の話だって、定期的に来る行商人が長老の家に置いていった本を盗み読んで知ったのだ。外の世界を知らない人間が今までの世界を捨てたところで、力なき彼を待っているのは死か、あるいは絶望である。 第三に――そもそも、死んだところで魂すらどこにも行けないのなら、どこにいても同じである。 ○ ハルと呼ばれる季節が今年もやってきた。 サクラは過去の例に漏れず、赤々とした花弁を枝のいたるところでふるわせている。鬱蒼とした森の中では空の色などそうそう確認できないが、天から差し込む太陽の光――彼は光という存在を知識としてしか知らない――に照らされているのだろう、本に描かれる桜の色より遥かに濃く、見方によっては禍々しいとすら取れる色彩が村の地面に投影されていた。 赤い大地。 祀る大樹と共同墓地。 血を吸い、魂を喰らう呪いの樹。 今年も、彼にとって恐怖の季節が始まった。 目の前で、女が一人舞っている。 ハルの訪れのお祝い。 長老の孫。 美しい舞であるとは認めるが、彼にとってその舞は覚悟を決める類のものであって、決して喜ばしいものではない。今の祭りだって、村全体がそういう雰囲気でなければ逃げ出してしまいたい。けれど村八分にされても構わないというほどの覚悟はない。結局彼が固める覚悟は、今年一年サクラの悪口を言わないよう口を堅く閉ざす、その覚悟でしかなかったのだ。 (この、臆病者) あのサクラを斬るための道具は探しているのだ。しかしあれだけ太く大きく成長し続けるサクラを両断できる道具など、森の中で手に入るわけがなかった。時折訪れる行商人の規模では、そのような道具を持ってくることもできない。その点について彼は諦めかけていたが、手斧や短刀で傷をつけようとしたことは幾度ではきかない。その度に罰を恐れて最終的に逃げ帰るのだ。 (この、臆病者め) だが、誰が彼を責めようか? サクラの狂信者どもは表面化しない彼の行動になど気付きはしない。 数少ないサクラを恐怖する人間は、彼の行動を突飛とはするが責めようとはしなかった。 そう。 皮肉にも偉大なるサクラの巨木の前では、人間の意志など何にもならない。 祭りは、ここにいる限り彼にそのことを突きつけ続けるのだ。 故に、偶然以外の何物にもあのサクラを止めることはできず、今年のハルもまた流れゆくのみ。 舞を見続ける彼の横顔は焚かれた炎に照らされ、赤くも白くも見えた。 剣が地を擦るようにして止まり、舞が終わる。 「これで今年の我が村も安泰じゃの!」 長老が酒をあおりながら叫ぶ。酔った赤ら顔は炎のせいでさらに赤みを帯びて見える。サクラを飾る美辞麗句を延々と繰り返し続ける老人の姿は、傍から見るだけの彼にはとても滑稽に映る。 あの炎が燃え移ってしまえばいいのに―― すんでのところでその言葉が口から飛び出るのを噛み下し、彼は逃げるようにねぐらの小屋へと走り出した。 ○ 今年も、つつがなく月単位の祭りは進むだろう。 彼がサクラをどうこうできることはなく、そして彼が臆病である限り、根に指名されるなどという不条理でもなければ、彼が捧げられることもない。 サクラはあまりに偉大すぎて、ヒト程度の存在ではどうにもできるようなものではなかった。 ……そう、信じられていた。 ○ 一月続くこのサクラ祭りも、最初の一日を終えれば最後の一日までは普段通りに狩りをし、食用植物を採集し、補修のために小さな木を切り倒す、この村にとっての日常が繰り返されるのみである。違うのは屋外がいつもより騒がしい程度のことで、外から客が来るような場所ではない。彼にとっては安眠を妨げる熱烈なサクラ賛歌や求愛の言葉が繰り返されるだけで、それさえ無視してしまえばいつもと同じことである。 ずっと待った。 最終日まで待ち続ける。 そして今、待ちわびた祭りの終わりが来る。 「ここに、祭りの幕を下ろすための舞をサクラ様に捧ぐ!」 長老の一喝とともに、美しい孫が舞のための剣を天に向けた。 彼女の目を見た瞬間、彼の背筋に何かが取り付いたような気がした。 暗い目。 澄んではいるが、同時に何を考えているかすら分からないような奇妙な目。 ぞくりとしたそのとき、風が村を吹き抜けた。 赤い花弁が彼女の周りで渦巻く。 上空から水滴が強く打ち付けてくる。 嵐――知識で知っているその言葉が頭をかすめた。 砂埃が視界を妨げ、掲げられた灯篭と焚き火を吹き消す。雨がその砂埃を打ち落とす。 さらに風が駆け抜ける。否、駆け抜けようとした。風が花弁を巻き上げ、家や木にその通り道を妨げられて渦を巻く。誰かの必死な叫び声がする。長老が喉も裂けんばかりに大声を張り上げる。それでも彼は彼女の――サクラとは別の意味で恐ろしい舞から、目を離せなかった。 剣は鋭く風を斬り、花弁を両断する。そこまで鋭いはずがないのに、彼女が空を切るたびに地面に何かの跡が刻まれる。吹き荒れた花弁も目に入らないのか、一心不乱に剣を振り続けた。 再び、剣が天へと振り上げられる。 そこから先を、彼だけが見逃さなかった。 花弁の渦が彼女を襲い、剣が弾かれるように空を飛ぶ。 剣は数回転して背後にあったサクラへと突き刺さった。 重い音がしたその瞬間、絹を引き裂くような音が落下。 あれは偶然か必然か。 凄まじい白色の槍のような矢のような――何かが、剣目掛けて落ちてきた。 そして、その剣を呑み込まんとしていたサクラに直撃する。 絹を引き裂くよりも鋭い、獣の叫びよりもおぞましい声のような音が村を支配する。 赤い光。 サクラが一撃で裂けた。 強くなり続ける風に、村の小屋がいくつか巻き上げられ吹き飛ばされる。 長老の絶叫が聞こえる。風に吹き飛ばされてはいたが、それ以上にサクラがとうわごとのように繰り返していた。 彼の口から笑いが漏れる。 サクラが、真っ青な炎を上げ始めた。いくら雨に打たれても炎が消えない。火事ならもっと赤い炎のはずだ――そのことを彼が思い出したとき、彼はサクラについて自分が考えていたことが当たりだったことを確信した。 やはりあの樹は、死者の魂を楽園に送り届けてなどいなかったのだ。 魂を喰らい、自らの糧とし、さらに赤々しい花弁で以てこの地の人間を魅了する、魔的な怪物だったのだ。 青い炎が、爆発的にその体積を増した。煙も上げず、周囲の樹が小屋が、風にさらわれる花弁が、同じ青色の炎に感染していく。もうだめだ、という叫びが聞こえた。 けれど、彼は笑った。腹を抱えて笑った。 風に足をすくわれ仰向けに倒れてもなお笑った。 青い炎――それはきっと、行き場を失くしていた魂が飛び立つ準備運動なのだ。 空を見上げる。 青々とした空間が目の前を満たしている。赤い花弁すら青く燃え、彼が憧れた桜の空とは違った、ある種幻想的とすら言えそうな空間がそこにはあった。薄青の背景を、揺らぐ濃青が舞い上がってゆく。 彼の体は動かない。もう指一本すら動かない。青い炎はもう彼の目の前まで来ている。動いたとしても逃げられない。 それでも彼は笑う。声が出なくなっても、腹を痙攣させてしまっていても笑い続けた。 どこにも行けないというのは、もう嘘だ。 喰らうものはもういない。 喰らわれるものすらもうここにはいられない。 この青々とした桜の空なら、サクラが産んだ境界線なら、どこからどこにだっていけるという確信が―― 彼の視界は、そこで燃え落ちた。 2009.03.17. |