小さな小さな勇者が、視界の端をかすめていった。
 何をもって勇者とするかは人によるけれど、僕は、「一般人がしりごみすることを平然とやってのける」が条件だと思っている。
 ……それならこの季節、無数に沸いて出るじゃないか。
 手に持った小さな傘を広げた。今は六月、あくまで一般の人間にとっては面倒なだけの水が落ちてくる期間である。植物にとっては嬉しいのかもしれないけれど。
 少し、早足になる。
 待ち合わせの時間まではまだ十分、ならぬ八分くらいは残っている。目的地に六分強はかかるだろう。大雨の中でデートとはオツなものだ、という感性はあいにくと僕にはない。彼女は実にパンクチュアルな人間で、四分以上は残してあのオブジェの前に着いているはずだ。年上を待たせるという思考も、僕にはない。
 走りにギアを切り替える。
 同時に、本格的に雨が降り出す。
 歩道が処分済みの何かで浸されていく。はねあげて走り、急ぐ。彼女の住む、待ち合わせ場所より向こうの市外は十数分前まで晴れていた。この雨だって急なものだ。もしかしたら彼女は傘を持っていないかも。そのくらいの抜けは、彼女ならあるかもしれない。
 空気抵抗が面倒で、傘は閉じた。
 全力疾走。
 三分ぐらいは、縮むだろうか。
 水溜まりは増える一方。その水をはねあげて疾走。車のタイヤも、はね飛ばす水滴の量を着実に増やしている。黒いジーンズに水の染みと泥の汚れができる。くそっ、お気に入りの服なのに。そう愚痴ったところで汚れが取れるわけでもない。
 妖精が風と踊っているような、奇妙なオブジェのある広場に滑り込む。
 到着した直後、酸素を求めて存在ごと忘れていた肺が自己主張の悲鳴を上げる。思わず膝をつきそうになったが、ジーンズがさらに汚れることに気付いて踏みとどまった。落ちた視線に、端についた泥が嫌でも割り込んでくる。だから雨は嫌いなんだ。
 正面にあるオブジェの足元。
 針金のようなものと磨かれた石が空を遮る下に、彼女はいた。
 悪い予感は当たると言うけれど、こういうときくらい外れていいじゃないかなんて、日頃の行い云々を信じない僕でも考えた。
 持っていることすら忘れかけていた傘を開く。背が冷えている。汗と雨はもう判別できない。時間をかけて選んで着込んだ衣装も、もうぐしゃぐしゃでどうしようもない。救いは、僕も彼女も黒系統が好みだったことだろうか。それとも、オブジェの奇妙な形状だろうか。あるいは、そもそも救いなんてのはこんな小さいことに当てはまらないだろうか。
「……ごめん、遅くなりました」
 彼女には、簡潔に。
 回りくどいメッセージなんて必要ない。
「遅いよ」
 彼女はそう言った上で、傘をさした僕に歩み寄ってくる。
 湿った空間上で、距離が縮まる。
「傘を持ってるのにずぶ濡れなんて、何かおかしいね」
 いつもよりも弱々しい笑みを浮かべて、彼女はさらに続けた。
「……ありがと。そんなに急がなくてもよかったのに」
 距離が、なくなった。
 僕の体が硬くなっていくのを、彼女は面白がっているに違いない。僕がこういうことに免疫がないことは知っているんだ。人前ならなおさら。雨が降っているとはいえ、市では有名な公園だ。人通りはそれなりにある。振り払いたくても振り払えない。あれか。一種の耐久ゲーム?
 改めて、僕は思う。
 ――僕の定義に従えば、僕は勇者でもなんでもない、ただの若造でしかない。当然ではある。勇者なんていうご大層な肩書きは周囲の評価であって、自分で積極的に名乗る代物じゃあないからだ。やってしまうのは、とんでもないほどに過剰な自信があるか、夢と現の境界線がズレているかのどちらかだろう。
 それを差し引いたとしても。
 いわゆる恋人関係にある人に密着されただけで逃避じみた思考に沈もうとする僕よりも、雨粒のほうがよほど勇気があるに決まってる。
 はるか高空から、たとえ集団とはいえ、パラシュートなしでフリーフォールをできるあの勇気と度胸は、やっぱり欲しくなるものだ。
 どうか、誰か。
 僕にその力を得る方法を教えてくれ!


2008.6.18. (Wed.)
Raindrop (is) Braver (than me).



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