「よっしゃ! 洗濯機抜けた! 残機あと二! ワンチャンあるぞワンチャン! 行けよ宏紀! もっと熱く」
 隣で画面を見ているだけの友人が騒ぐのを、川崎宏紀は意識の外に締め出した。ゲーセンでの弾幕STGはもっぱら趣味の領域だが、数ヶ月前からやたらと精密動作でミスがでなくなったのが皮切りになったのか、いつのまにかこの辺りでは知られたプレイヤーになっていたらしい。
 もっとも、この悪友に関しては、いい加減やっているのが格闘ゲームじゃなくてシューティング――もっと冷静さが必要だと分かってほしいもんだけどな、と毎回のように思うのも飽きてきた。
「おお、あれ避けやがった!」
 ギャラリーの一人は手を叩いた。
「あれを避けたァ? 変態すぎるだろやっぱ……」
 一人は呆然とつぶやいた。
「さっすがヒロキ! やっぱ集中力が桁違いだな!」
 騒がしい悪友は相変わらず大きな声で叫ぶ。
 ボス機の繰り出す凶悪なワインダーを潜り抜け、こちらもショットを撃ち続けて応戦する。弾消しは既に切れているので、気合避けだ。
 画面上部のボスに、光の輪が幾重にも重なる。
(――来る!)
 繰り出されるのは、安全地帯四ドットの高速ばらまき弾幕。
 STGを始めるきっかけになった、先輩の言葉が不意にフラッシュバックした。
 考えるんじゃない。感じるんだ――と。
 画面を食い入るように見て、精密操作を繰り返して安全地帯に潜り込む。今日は調子がよくて、家でもやりこんだこのシーンでミスする気がしなかった。
 ドット単位の移動を、何度も何度も繰り返す。
 自分の目がおかしくなっているのでなければ、一ドットの乱れもなく移動できているはずだ。
 計画通りに弾消しを使い切った機を捨てて、残機は一。撃ち込んだショットが、ボスに命中して派手な爆発炎を上げる。難所は抜けた! 筐体の画面が暗く見えたが、見物人がやたら増えたんだろうかと宏紀は考えた。
「キタァァァァアァァ! あの人外ボスが落ちたァぁぁぁぁぁ放せよまだ俺見たいんだようわああああああああああああああ……」
 あまりの騒がしさに、さすがの店員も応対したらしい。フェイドアウトする悪友の嘆きは、どうやら屈強な店員に両脇を固められた上で担がれて搬送されたものらしい。いつものことだ。
 画面がホワイトアウトし、少しずつ明度が落ちていく。
 ブラックアウトから画面が立ち直った瞬間、宏紀は本能的にレバーを傾けた。精密さもなにもあったものじゃない大きな移動は、しかし超高速で飛んできたレーザーをかわすことに成功した。
「まだ終わってない……だと……?」
 ギャラリーの一人が思わずかつぶやいた。
 無茶な弾幕を避け続けて、あれが最後じゃないとは予想外だ。さすがに人類に挑戦している会社は格が違う。斜め上の方向にだが。
 敵機は見えない。
 背景はまだ黒い。
 赤黒い警告ワインダーが画面を走る。
 次の瞬間、宏紀は反応もできずに機数を一失った。残機ゼロ。
(……ワインダーの次に黒色のレーザー、か?)
 だとしたら避けようもない。
 無敵時間が切れる。
 警告ワインダーが走る。
 避けきれないと判断し、ボムを投下。
 次の瞬間に、白いレーザーが画面を蹂躙した。
 無残にも、白く染まった画面が元通りになった時に表示されていたのは、コンティニューの意思を確認する非情なゲームオーバー通知だけ。
 予算を積み上げた百円玉の山は、もう残っていなかった。
 足元に置いておいた学生鞄を取って、宏紀は筐体の席を立つ。店員がモニターに繋いでいた録画機器のスイッチを切った。後は、きっと店側が適当に編集して更なるボス発覚の速報を動画サイトにでもアップロードするだろう。
 ボタンを押して、コンティニューカウントをゼロにする。
 GAME OVER。
 聞き慣れたシステムメッセージをしかと聞き取って、宏紀は筐体に背を向けた。
「お疲れさん!」
 この店の常連が、強く宏紀の肩を叩く。モーセの海割りよろしくギャラリーの群れが割れ、会釈を交えながら宏紀はゲームセンターの外に出た。

「お疲れさん」
「ああ、……しばらくはアーケードじゃやれないな」
 金が足りないよ、と宏紀は悪友にぼやく。
「最後のボム殺しだけは読めなかった。というかまったく見えなかったからね。家庭用でもっとスティック捌きを精確にする訓練が必要かな」
「お前の操作が精確じゃなきゃ、どのくらいまで突き詰めれば精確なのか分かりゃしないな」
 悪友は笑った。
「ちょっとでもずれればドット単位のズレになるんだよ。そんだけズレれば弾に当たっちまう」
「それもそーか。ま、確かに格ゲーでも似たようなことはあるしな……。ひとつ聞くけど、そういう精密動作って何かコツがあるのか?」
 宏紀は目線を落として掌を見つめる。
「……うーん、見えてるグリッド線に合わせて手を動かす、かなぁ」
 呆れたように、悪友は快晴の空を見上げた。そろそろ、夕焼けがまぶしい時間だ。
「冗談だろ……」
 お互いがお互いの得意なジャンルが苦手なこともあって、一度そこで会話は終わる。
 遠い目をした悪友は、しばらく歩いてから電柱の張り紙に目を向けた。
【八月二日・築都市大花火大会!
 年に一度の祭りを、市全体で楽しもう!
 ゲスト出演:パニックリリックオブセッション
              (音楽グループ)】
「……ああ、そういえばもうそういう時期か」
 夏の課外が鬼畜すぎて気づきもしなかった、と悪友は大袈裟に嘆いた。
 八月頭の大花火大会は、全国ネットでも中継されるほどの大規模なものだ。年に一度の大盤振る舞い、なんて呼び方もされるが、最近は隣の市のせいでベッドタウン化が進んでいるだけあって、やっぱり町おこしも含めて市民は真夏の夜のドンパチを楽しみにしているはずなのだ。
 いや、訂正しよう。
 築都市に住む人間としては、花火を楽しむのは義務だ。花火が楽しめないのは築都市民じゃねえ――なんていうのは、血の気の多い宏紀の父の受け売りだったりする。
 二人の視界を、人影がわずかにかすめる。
「へえ、今年はあのPLOまで来るのかよ。こりゃ大混雑だな」
 悪友が呟く。
「でもまあ、今年は築都にゃ悪い噂もあるし、PLOも倉潮で問題起こしたばっかりだし、どうなることかね。なあ、お前はどう思うよ、宏紀」
 呟いている途中から、彼は宏紀に話を振ろうとする。

「おい、聞いてんのかよ! ……宏紀?」
 しかし彼は風のように消えていた。
 ただ一人残された少年は、呆然と立ち尽くすだけだった。


   †


 悪友をその場に放り出し、ふらりと宏紀は路地へ歩き出す。無自覚に、視界をふらりとかすめただけの人影に、吸い寄せられるように動いた。
 一瞬だけかすめた人影の特徴を、宏紀の脳は正確に記憶している。
 長い黒髪に、築都市にある私立高校の夏服セーラー。白地がベースなのは大多数の高校の女子制服と同じだろうが、胸元の刺繍がこのあたりにしてはやたら上品で特徴的だ。
 無意識に、宏紀は少女を尾行している。
 意識は研ぎ澄まされている。さっきゲームセンターで使い果たしたと思っていた集中力は、まだまだ底をついてはいないらしい。道路を、細かいグリッド線が這うように伸びていく。
 最近、集中すると見えるようになった不思議な線だ。悪友は理解しかねたようだが、宏紀の精密動作の鍵はこの線そのものだ。それに沿って動けば絶対にずれない――不思議なことに。
 目の前の少女が、路地裏へ路地裏へと曲がっていく。宏紀もそれを追う。足音はできるだけ立てないように。物音も立てないように、精確に精確に体を動かす。
 かつん、かつん、かつん。少女が髪を揺らしながら奥へと進む。
    、   、   。少年は無表情に静々とその後を追う。
 かつん、かつん、かつん。
 ―  、―  、―  。
 かつん、かつん、かつん。
 ―― 、―― 、―― 。
            。
 ―――、―――、―――。
 不意に音が途切れて、宏紀は表情に欠けた顔でぎょっとする、なんて器用なことをした。目の前にいたはずの少女が、いつの間にか消えている。前を改めてよく見れば、いつの間にか開けた場所に出ていた。路地裏の中の公園のような場所――日当たりはいい袋小路に突き当たっていただけだった。
 引き返そうと重心を動かして、突然、背後から首筋に何かを当てられた。
「ちょっといいかしら」
 女の声。声を聞いたこともないのに、なぜか自分が尾行していた少女のものだと直感した。
(いつの間に背後に回られた?)
 宏紀は考える。足音は立てていなかったはずだ。かといって後ろからの足音にも気づかなかった。そもそも前を見ていたはずなのに、なぜ見失ったことに気づかなかった?
「尾行のつもりだった?」
「……ああ」
 嘘をつく理由もないから正直に答える。
「素人?」
「……そうだな」尾行についてなら、そうだ。
「なんでそうしようと思ったの?」
 どうやらこいつは怒っているらしい、と平常に戻りきれていない頭で宏紀は考える。
「……」
 そこで考えが止まってしまった。
 そもそも、自分はなぜこの少女を尾行しようなんて考えたのだろう?
「答えられないの?」
 首筋に当てられていたものが目の前にスライドしてくる。持ち歩くには少しだけ季節外れの、柄が伸ばされた水玉模様の折り畳み傘だった。
「……尾行するならもっとまともにしなさい。足音丸聞こえなのよ、あなたの歩き方。私にばれたくないなら〇・〇〇〇〇六パスカルあたりは切ってもらわないと」
 いややっぱり〇・〇〇〇〇二は切らないと、とはさすがに冗談だろうか。
 パスカルって音の単位ではなかった気がする、という疑問を宏紀は飲み込んだ。どうせまともに答えはしまい。
「……で、あんたは何でこんな路地裏に行こうとしたんだ」
 とりあえず会話をつなぐために、別の疑問をぶつけてみる。
「……そういえば、なんでだろ?」
 悪い冗談だ。
「おいおい……」
 尾行を問い詰めておいてその切り返しか――というのも、飲み込んで胃の辺りで消化する。
「気がついたらここにいたような――何よ、何がおかしいのよ」
 少女が少しだけ声を高くした。
「いや、同じだと思って。オレも気付いたらあんたを尾行してた」これじゃまるで自覚のないストーカーだ。「同類みたいなもんじゃないか」
「そんな変態的な行動と私のやりたかった事を一緒にしないで」
 彼女の言い方には取り付く島もない。
 お互い、話すことがなくなって自然と黙る。
 お互いに動くこともないまま、――傘は首筋に突きつけられたままで、数分間場が止まった。
 不幸にも日当たりのいい路地裏にいる二人を、じりじりとお高くとまった夕日が焼いていく。
 重たい空気に、何度かため息が混じる。
 十回ほど互いに幸せとやらを吐き出した頃、少女が、突然傘を振って空を仰いだ。首筋をしたたかに打たれて宏紀も歯を剥く。
「いきなり何だよ!?」
「聞こえないの!?」
 彼女も彼女で、強い調子で言い返す。
 その直後、かすかに、妙な音が聞こえたのを宏紀は聞き逃さなかった。
「鉄骨が斬られるような音よ。分からない?」
 やけに具体的で想像しにくい例を挙げてから、「私見に行くから」などと言って少女が宏紀に背を向ける。そのまま、路地裏の別の角を曲がって更に奥へと潜っていった。
 少女がいなくなって、音も聞こえなくなる。
「何だよ……」
 右手で首筋をさすった後、宏紀はその掌をじっくりと見た。夏の暑さもあってか汗ばんでいる。その手を握り締めて、少女が消えていった路地を見やった。
 置き去りにした悪友が言おうとしていた、祭りを前にした市民が常々忘れようとしている『悪い噂』の中身を、この時に限ってはスムーズに思い出せてしまう。
 ――築都の路地裏で、子供が消え失せる。
「くそッ……!」
 宏紀も、彼女の後を追って走り出した。
 胸騒ぎがひどい。
 かすかに漂う硫黄の匂いにも、周りに広がるグリッド線が際限なく細かくなっていることにも、彼はまだ気付かない。

   †

 音の出所を探るのは、少女にとっては苦でもないことだった。
 黙々と歩を進めるのは、あの少年の尾行に気付く直前まで彼女を支配していた情動だ。
 目的地はさらに奥まった路地裏だと割り出して、早足でそこまで行こう。自分に振り回される奇妙な感覚は無視する。
 あの音は魔的だ。
 かつて市民ホールで行われたオペラ公演なんかよりずっと魅力的だ。
 鉄骨を、斬るような音。
 少女の頭の中に居座る何かが、その音を聞きたがっている。
 ぱきん、という単純極まりない擬音は不適切に違いないと確信する。
 体内と脳の解釈で増幅すれば、どんな小さな音だってはっきりと聞き取れる。
 一度だけ聞こえた音だけを手がかりに、勢いよく路地裏を探し回る。
 ノコギリ波でも単形波でも、三角関数や方程式にもない、すごく独特な波形を持っていそうなあの音が愛しい。
 もう一度、その音が聞こえた。
 近い。
 興奮したのか、少女の足音が大きくなる。
 視界が開けた。
 日光は届かない。
 日陰の白い石の道。
 赤い染みが、落ちる。
    ぽつり。
  ぽつり。
 跡をたどれば、
   人影がぽつり。
 そいつと目が合った瞬間、少女の背筋を怖気が駆け抜けた。
 赤の斑のスリップドレス。顔を覆い隠す長い艶髪。胸元にかき抱かれているのは、そこまで歳のいかない少年か、少女か。
 サダコ。
 あるいは、ヒト型のクリーチャー。
 スクリーンの中から這い出るような、恐怖映画の象徴的女性を思い起こさせる、やけにリアリティを伴う連想――それは、高校生としての彼女の認識だった。
 思わず、一歩だけ後ずさる。
 女が笑う。
 ――悪い噂もあるんだし、家には早く帰ってきなさいよ。叔母の言葉がこんな時に限って思い出される。
 女が嗤う。
 ――築都の路地裏で、子供が消え失せる。連鎖的に悪い噂を思い出して、さらに一歩後ずさる。
 女が哂う。
 ――幼い叫び声が頭の中で響く。あの胸に抱かれた子供が殺されるときに上げた叫びだろうかと考えて、さらに一歩後ずさる。
 女が、子供を放り投げた。
 湿った音が、薄汚れた石畳の上でこだまする。
 次には、突き刺すような硫黄のにおい。
 一拍置いて、黒い何かが少女の体目掛けて殺到し――――


   †


「伏せろッ!」
 十を超える曲がり角を抜けて少女を見つけると同時に、息が切れそうなのも忘れて宏紀は腹の底から叫んだ。あまりに濃い硫黄のにおいは、いくら路地裏と言っても常識的じゃない。
 呆けたように振り向く少女の後ろで、黒い何かが鎌首をもたげて一瞬静止した。
 宏紀と少女の距離は十メートル弱。
(間に合え……!)
 全力で石畳を蹴る。思ったよりも速度が出たということよりも、動作ひとつで五メートル以上も距離を詰めた自分を自然に受け入れたことに宏紀は驚いた。着地と同時、右足で少女の足を払う。不意を突かれたのか、彼女の体が抵抗もなく面白いように地に這った。
 一瞬前まで彼女の頭があった位置を、黒い何かが薙ぎ払うように通過する。宏紀も間髪いれずにかがんで回避する。濃い硫黄のにおいが、宏紀の脳から余裕を削り取る。
「何してくれんのよ!」
 足元から、少女が睨みつける。一瞥するだけして、宏紀は目の前にいる何かに向き直った。
 するすると、かわした黒いものがそれに引き寄せられる。
(……髪、か?)
 顔全体を覆い隠せそうなほどの量の髪らしき黒色の繊維を目の前で逆立てるそいつは、白いスリップドレスの裾を赤黒く染め、表情の読めない顔でこちらを見る。女性らしい体つきをしていても、殺意としか思えない濃厚な硫黄のにおいが全てを台無しにしている。
 息が詰まる。
 女が、口元を歪める。
 嫌な予感に、宏紀は左側へ飛び退る。
 次の瞬間、さっきまでいた場所を髪が突き抜け、背後にあった鉄骨を刺し貫いた。
 女らしき何かに向き直る。
 濃厚すぎる硫黄のにおいと、においに混じる血の香りが宏紀の肺を直撃する。
 女が、首だけを向けて宏紀を見た。
 見られた。
 心臓が跳ねる。
 女が、逆立てていた髪を下ろした。それだけで、不気味さが数倍に増す。
 心臓が跳ねる。
 女の眼光を想像してしまう。
 どんな目で見られている?
 奴はどんな目でオレを見ている?
 もう一段深く想像しようとしてしまったところで、宏紀の足は完全に言うことを聞かなくなった。
 震えが止まらない。
 女はさっきから姿勢ひとつ、髪の毛ひとつ動かしていないのに、宏紀の体は動こうともしない。
 重圧。
 しゅる、とかすかに音がした。
 女の左目だけが、黒いヴェールの向こうからのぞく。
 宏紀と女の、目が、合った。
 何もない。
 女の視線は空っぽだった。
 何も見ていないのではなく、まるでそこにヒトが立っていると認識しているとは思えないような空虚さで宏紀を見た。
 足どころか、歯までがちがちと震えてうるさい。
 でも、動けない。
 しゅる、とまた音がする。
 次の、瞬間。
 どすん、と呆気ない音がした。

   †

 気が付いたら、今いた路地裏の光景がどこかに行っていた。
 あの女に殺されてしまったのかとか、もしかしたらあの少女が路地裏から自分を助け出してくれたのかもしれない、ということには思いも至らず、宏紀は目の前で明滅を繰り返すものをじっと見つめた。
 崩れた瓦礫が、逆回しにされた映写機で動画を見るように地上から空へと吸い上げられていく。途中で減速し、仕舞いには停止した。
 ありえない光景だ。指一本動かせないことに気付かないまま、何の不思議も覚えずに宏紀は首だけを動かして誰が流しているかも分からない映像の続きを促す。
 また、映像が明滅しながら動き出す。
 瓦礫はひとつひとつ上昇する速度も違えばその軌道も違う。動きに秩序性というものもあまりない。しかし吸い上げられた先ではひとつひとつがしっかりと折り重なり、何か形をとろうとしていた。
 今まで何度も何度も世話になってきた、灰色の線がその形に絡みつく。
 ――塔。
 何の迷いもなく、宏紀はその形を塔だと思った。
 灰色の線が際限なく細かく引かれ、瓦礫がその中に詰め込まれていく。
 塔らしきものが、完成する。
 いや、完成はしていない。際限なく伸びて天を衝こうとしているだけで、塔は完成には程遠い。
 何かを逆回しにしたような音がして、塔の頂点から空に向かって、何本かのぎざぎざとした直線が猛烈に立ち上る。
 次の瞬間、凄まじく精密に積まれた煉瓦の配列が宏紀の目に飛び込んだ。
 美しい、と感じる。
 今まで数学なんて嫌いな教科だったはずなのに、煉瓦の配列に数字的な、幾何学的な、図形的な美しさを見出そうと脳が勝手に動いている。
 その塔が落ちるように迫る段に至って、ようやく宏紀は体を動かそうとした。
 力が入らないことに気付くに至って、慌てふためいて塔を見た。
 落ちてくる。
 瓦礫から生まれた美しい煉瓦の組が、落ちてくる。
 落ちてきているのに、塔はどんどん小さくなっていく。
 そして、宏紀の胸の中央にぶつかり、そのまま、胸に潜り込んだ。
 宏紀の顔が驚きで埋まる。
 次の瞬間、宏紀の視界はぶつりとブラックアウトした。

 暗闇の中で、嫌になるほど精確な目盛りが無限に広がっていくのを、宏紀は感じ取っている。

   †

「………………よ!」
 耳元で誰かが叫んでいるらしいけれど、よく聞き取れない。
 拳を握ろうと指を動かす。――問題ない。
 ここがどこかを知りたい。――きっとまだ路地裏だ。
 叫んでいるのは誰だろう。――目を開ければ、分かること。
 宏紀は、ゆっくりと目を開けた。
 目の端に、夕焼けに染まる空とあの少女の必死な顔が見えた。
「避けなさいよこの馬鹿! 来るわよ!」
 少女の叫び声に、反射的に宏紀は転がった。真上から、あの髪が降り注ぐ。辛うじて直撃は免れたが、幾筋かにかすった皮膚がわずかに血をにじませる。
 不思議と、恐怖はなかった。
 立ち上がる。
 頭の中で、何かがささやいた。
 ――アレは敵だ。
 無意識に向き直った先に、髪を逆立てた不気味な女。
 ――アレは敵だ。
 体が身構えるのを止められない。
 ――アレが、敵だ。
 頭の中でがなりたてる何かが、宏紀に言わせる。
「……《アルカナルーラー》」
 それは何だろう、と宏紀は考える。考える前に、視界を無数のグリッド線が覆っていく。ゲームセンターや日常生活で集中したときよりもずっと濃い密度に、一瞬身じろぎしそうになった。それを、意思とは別の何かがねじふせる。
 宏紀の体が、一歩、女に向かった。
 ――待て、あんなのに勝てるわけがない!
 そんな宏紀の考えを無視して、
「うおおおおおおおおおッ!」
 雄叫びを上げ、宏紀の体は女に突進した。
 女が一瞬動きを止め、しかしすぐに髪を伸ばす。
(見える……?)
 グリッド線の助けもあって、直線的に来る髪の狙いに当たりをつけるのも早くなる。
 武器は拳が二つと、脚が二本。あとは頭突きでも肘でも叩き込めばいい。
 伸ばされる髪は、存外に速い。けれど、見えているなら避けられないことはないのだ。幸い、どこを狙っているかはあのグリッド線で分かるのだから、それに沿って、いつも通りに精確に動くだけ。
 思い切り右脚を踏み抜き、空中で身をよじって髪の間をすり抜ける。右手を大きくテイクバックして拳を握る。左手は大きく広げて、女の顔面に狙いをつけた。
 髪をすり抜け、左足が地に着く。
 女の髪が、驚きに揺れたようだ、と宏紀は思った。
 右足を踏み込む。
 震脚。
 引き絞られた弓の弦から矢が放たれるように勢いよく。
 宏紀の右拳が空間を走る。まともに喧嘩したこともないくせに、速度だけは十二分だった。
 手応えは、ない。女の左手一本で渾身のストレートが止められたと気付いた次の瞬間には、体が宙に舞っていた。放り投げられた空中で、さらに女の髪が檻でも作るかのように宏紀を追いかける。
 下から、黒い直方体が投げ放たれる。蚊帳の外にいた少女が放り投げたそれは、髪のいくらかを押し曲げ宏紀の手元に届く。
(オレの学生鞄、ね……!)
 それなりに重量のある鞄をキャッチし、上から横から槍衾のように迫る髪を慣性増し増しのスイングで払いのける。勢いに押される肩の痛みをねじ伏せ、バランスは崩しながらも両足で着地する。
 髪を戻す時間で手間取っている女に、宏紀は改めて向き直る。
 チャンス。
 右手で鞄を持ち直して、思い切り振りかぶる。
「いっけええええええええええッ!」
 腹の底から気合声。
 石畳をへこますぐらいに左足を踏み込む。
 鞄を――幸いにも質量武器としては使えるぐらいには教科書やノートを詰め込んだ鞄を、投げ放つ!
 テレビで時々見る、プロのピッチャーが投げる剛速球をイメージして投げた黒色の革箱は、髪が戻り切るのに間に合う。フォロースルーの右足でそのまま石畳を踏み込み、もう一度右拳を握った。
 重い音を立てて、鞄が地面に落ちる。髪をようやく戻し終えそうな女の両腕はだらりと下に伸びている。腕で鞄を叩き落そうとして、間に合わずに腕を痺れさせたのだろう。
 宏紀と女の、目が合った。

 ――「ねえ、宏紀くん。キミの夢って、何かな?」

 唐突に、頭の中で聞き覚えのある声がフラッシュバックした。温かい記憶を、硫黄の鋭いにおいが上から塗り潰していく。
 宏紀の体が強張り、握った拳が勢いを失う。
 彼が着地した時には、女はもうこの場を飛び去っていた。
 ビルや電柱に髪を巻きつけ、曲芸ブランコやターザンジャンプのように、しかし市民には決して気付かれることのないように。
 拳を握り直したときには、女はもう見えなくなっていた。


「……くそっ」
 宏紀が握り直した拳を石畳に叩きつける。生き残った安心を押し潰されないようにするのが半分、最後の最後によりによってあの女と宏紀が尊敬する人を結び付けかけてしまった不快感が半分の拳は、石畳が傷つくにはあまりにも弱々しく着地した。
 よりによって、どうして、あの人を連想したのだろう。
 あの女と違って、あの人は髪も短いし、スリップ一枚で飛び回るような人でもないし、何よりあんなに不気味な気配を振りまく人じゃない。むしろ常時マイナスイオンでも撒き散らしていそうな人だ。
 それなのに、何で、どうして。
 自分が何か危ない方向に目覚めてしまったことに対する恐怖は、不思議と感じない。
「綾巳姉さん……」
 あの人の名前を、宏紀は口にする。あの人のイメージを強く思い出しておかないと、あの化け物に彼女を汚されるような気がした。
 背後で足音がする。しゃきりとシャフトが伸ばされるような音がして、宏紀の背中に固いものが押し当てられた。
「あなた……何者?」
 棘のある声で、少女はそう問うた。
「――オレもよくわからなくなっちまったよ」
 宏紀は、ため息混じりにそう吐き捨てる。


   †


 沈みかけの夕日を背に、宏紀は家に帰る。
 アドレナリンその他諸々の脳内物質が切れたのか、存外に痛む体を引きずるようにたどり着いた我が家の前に、誰かが立っていた。短い髪に、淡色の半袖ブラウス、フレアスカートを合わせた格好は、幼い頃から見慣れたものだ。
「おかえり、宏紀くん」
 足音に気付いたのか、その人は振り向いて宏紀を出迎えた。タイムリーな出会いに、宏紀の体が若干強張る。
「……帰ってきてたんだ、綾巳姉さん」
 高峰綾巳。宏紀が小さい頃からずっと面倒を見てくれた、姉代わりの人だ。今はもう大学も卒業して、隣町――倉潮市に一人で部屋を借りて働いていると聞いていた。
「うん。去年はだめだったけど、築都生まれとしては、やっぱり大花火だけは見なきゃね。それに、花火の作り手側になったから、また花火の面白さも変わるかなって」
 この区画では成績優秀者で、保護者世代には通りも覚えもよかった綾巳は、県外の大学で学び、地元の花火製作所に就職した。花火に携わる仕事をしたい、という夢を叶えた彼女は、宏紀には一番身近なサクセスストーリーの体現者だ。
 だから、あの女と彼女を重ねてしまった自分が嫌になる。
「作り手側としては、今年の花火はどうなんですか?」
「そうそう。やっぱり職人って凄いよ。私も化学系の知識は頭に入ってるけど、理論だけじゃ経験に敵わない。でもそれを知れるだけでもすっごく楽しいの。夢を諦めなくてよかったって思ってる」
 花火の話題を振られて興奮したのか、綾巳の口調が熱を帯びる。ひとしきり喋った後、興奮が収まらないのか綾巳は宏紀に抱きついた。
「それでねそれでね。まだ実はお父さんにもお母さんにも報告してないからキミに一番最初に報告することになっちゃうんだけど、今年の築都の大花火、私のデザインした花火も打ち上げられるの! おかげで最近眠れなくて疲れてるんだけど、宏紀くんの反応が楽しみだったから真っ先に来ちゃった」
 抱きつく力は思ったより強く、憧れの人が無防備に力いっぱい抱きついているのもあって、宏紀は完全に固まってしまった。女性特有の柔らかさとかいい匂いとか、そんなことよりもシチュエーションだけで酔いそうだった。
「それは……どうも」
 がちがちに緊張してしまって、まともに喜びの言葉も伝えられないのがもどかしい。
「だから、絶対に見に来て。ね?」
 こくこくと、宏紀は首を縦に振る。状況に酔ったのかまともに口は動かず、頭も回らない。
 綾巳が体を離すと、彼女の後ろからかすかに風が吹いた。
「じゃあね、宏紀くん。大花火大会、絶対見に来てね!」
 綾巳が、小走りで去っていく。
 すれ違う瞬間、硫黄のにおいが宏紀の鼻をついた。
 あの女がずっと漂わせていた、あのにおいを薄めたような、それでも弱いとは言えない刺激臭。
 ――これは、違う。違うと言ってくれ!
 そうだ。違う。違うに違いない。
 あの人は花火が好きで、花火を作る仕事をしている。だからこのにおいは火薬に使われる硫黄とか硝酸とかのにおいが髪や服に残り香としてついていただけで、あんな理不尽でおぞましいものが彼女なわけがない。
「……何だってんだよ、今日は」
 ため息数回では追いつかないような幸運の逃げっぷりだと思う。
 疲れ果てた宏紀は、もう何も考えられずに、ただ家の扉を開けた。


   †


『名は体を表す』という言葉がある。
 名前はそのものの本質をよく表している、という意味だ。
 例えば、「祐」という名前の人が、人間であれば即死確定の交通事故に、間一髪巻き込まれなかったという事例。「祐」という漢字には「神様が救いの手を差し伸べる」いう意味がある。その人は、まさに「神様が手を差し伸べたが故に」事故に間一髪巻き込まれなかった。つまり、神様が救いの手を差し伸べる人間だったのである。
 類友だとか、火のないところに煙は立たないだとか、そういうレベル。偶然ではなく、必然として起こる奇跡。
 人の拙い命名行為が、運命に干渉するほどの結果をもたらすなら。
『世界』だからこそ、より強烈な干渉をするのはたやすい。
『世界』は彼らに、彼らの親が懸命に考えて授けてくれたものとは別の名前を与える。与えてくれた。人間に比べれば神にも等しい『世界』――単純に、神様だとか天啓だとか言い換えられるのかもしれない――が彼らに貼り付けたラベルの場所は、親がくれた文字列の真上。ヒトの想いを籠めた命名行為を、顔がない何かが命銘行為で貼り潰す。
 代わりに彼らが手に入れたものは、世界の主役になれるだけの力と、人の想いを踏みにじりかねない、とてつもない力だ。
 世界の記録に刻まれた、新しい名前。彼らは、その名前にちなんだ異能を得てしまう。
 例えばの話。『ストレージ』という名前だったら、何かを保管するチカラを貰えるだろう。『ゼウス』であれば、ギリシア神話の主神のように雷を操る力だ。あるいは、ひたすら女をたらしこむ才能だろうか?
 連想しやすい命銘。『世界』は、無作為に選ばれた彼らに、気まぐれでそんな銘を彫り込んだ。
 誰も必要だとは言わないのに、顔のない姿で良かれと思い。

 共生する正常(ノーマル)と寄生する異質(アブノーマル)。
 これは、そんな彼らの、新しい名前にまつわる物語だ。