時は遡る。
「あなた……何者?」
 棘のある声で、少女はそう問うた。
「――オレもよくわからなくなっちまったよ」
 宏紀は、ため息混じりにそう吐き捨てる。あれだけの恐怖が一瞬でどこかにいって化け物と殴りあった自分はいったい何者なのか、本当に川崎宏紀なのかが不安になったのは確かだ。
「……たぶん、築都高校一年三組の川崎宏紀。そんな感じだと思うけど」
「なんで自分の名前を言うのに『だと思うけど』なんて言葉が入るのよ」
 少女は至極真っ当な突っ込みを入れた後、左手で後ろ髪を払ってから名乗った。
「藤沢天音。たぶんあなたと同い年。高校は違うけどね」
 それより、と天音は一歩詰め寄った。
「あなた、やっぱり何者? いきなり人を尾行するわ、追いかけてきて足を乱暴に払うわ、あんな化け物じみた奴と大立ち回りするわ、鞄をプロ野球選手並みのスピードで投げるわ……普通の人間ですって言い張る?」
「足を払ったのは別にいいだろ……」
「そんな突っ込みは期待してません!」
 愚痴をストレートに切り捨てられると、多少辛いものがある。
「《アルカナルーラー》、か」
 宏紀は、自分が口走った奇妙な名前を思い出して復唱する。グリッド線はまだ周囲に張り巡らされていて、天音の顔も例外なく画分されていた。
 その名前を口にした後、恐怖や怯えが消えていったのを思い出して怖気が走る。自分の知らないところで方法を知っていたとしても、自己暗示にしては行き過ぎだ。一般人が拳銃を眉間に突きつけられて、何か言葉を口にするだけで恐怖が吹き飛ぶなんてありえない。
「何なんだろうな。もしかしたら、見えてる線もそのせいか?」
 いつからか見えるようになった、世界を区切るグリッド線。他の人には見えていないだろうとは思ったが、なぜ自分には見えるのか、宏紀は考えたこともなかった。
 もしそれが、この得体の知れない名前のせいだとしたら。
「……『見える』って言った?」
 天音が、聞き返す。
「何が見えるの? 他に変わったところはないの?」
 そして立て続けに聞いてくる。
「あー……説明が難しいけど、グリッド線がずっと見えてる。さっきのことを考えると、案外と身体能力も上がってるのかもな」返答が投げやりになった。現実味が薄すぎる。
「……やっぱり、人によって違うんだ」
 天音は考え込むように視線を落とした。
「それで――藤沢サンも何か心当たりがあるわけだよな?」
 人によって違う。そう言うなら、彼女も何かしらの異常な特徴があるはずだ。宏紀のグリッド線が他の人に見えないように、あの女の髪が異常な鋭さを持っていて、かつ伸縮自在であるように。
「……音が聞こえるの」天音は答えた。「どんな細かい音でも、小さい音でも、果ては普通の人には聞こえないような霊媒的な音とか、宇宙的な音とか、ホラーチックな音とか、まとめて、全部、詳細に」
 ため息をはさんで、天音は宏紀に向き直った。
「音は嘘をつかないわ。わたしは、いつからかどんな音でも聞き分けられるようになったの。あなたのグリッド線にあたるものがこれだと思う。
 ……わたしはこれを、《ライアーズノート》って呼んでる」
「嘘つきの……音?」
 聞き慣れない語感に、思わず宏紀は聞き返す。
「ちょっと昔に、似たような名前のマンガだかドラマがあったの。それを参考にしてつけてみた名前よ」
 わたしは音に騙されない。
 だから音は嘘をつかない。
 それはきっと、嘘つきは嘘の音を全部知っているからだ――。
 天音はそう言った。突拍子もない三段論法に似た何かだったが、名前をつけた由来というのは分からなくもない。
 そこで、引っかかった。
「待った。名前をつけただって?」
「あなたもそうじゃないの?」
 心底意外そうな切り返しをされて、思わず頭を抱えそうになった。
「オレはそんなことしてない。気付いたら口走ってたようなあの名前の意味なんか知らないぞ」
 今度は、天音が呆然と口をあけた。
「自分の名前もまともに知らないの?」
 宏紀の視界が、一瞬だけ赤く染まった。
「どこの誰がどんな思いをこめたかも分からないような名前なんて、オレは自分の名前とは思いたくない!」
 そうだ。
「名前は親とか、その知り合いとかが、何かしらの願いをこめてつけるものだろ!? 何で得体の知れない何かに、一方的に与えられた名前を甘んじて受けなきゃならないんだ!?」
 宏紀は知っている。
 両親が、どれほど悩んでこの名前をつけてくれたかを知っている。
 宏く紀を選べますようにと願いがこめられたこの名前を、宏紀は誇りに思っている。
 だからこそ、
「どこの何がこめられたかも分からない名前なんて、オレは自分の名前とは認めねえッ!!」
 宏紀は、逆上してその場を駆け去った。
 頭の中が塗り潰されて、周りなんて見えていなかった。


   ‡


 翌日。
 目覚まし時計が鳴るよりも早く、宏紀は跳ね起きた。
 いつの間にか握っていた拳を開くと、じっとりと汗がにじんでいる。寝間着のシャツも汗を吸い、夏だというのにむしろ肌寒いぐらいだった。
 開いた掌を見つめる。
 目を細めなくてもすぐにグリッド線が掌を覆いつくす。
 肺一杯に空気を吸い込み、ため息として全て吐き出した。
「夢……」思い出そうとして、体が底から冷えた。
 ずっと見えてきたグリッド線が、実は得体の知れないものにつけられた名前によるものだった。
 昨日知ってしまったことだけが都合よく夢でありますように、なんてことは思っていなかったが、代わりに見たのが、綾巳の顔になったあの化け物女に何度も何度も刺され斬られ殴られ蹴られ、挙句殺される夢だったのだからどうしようもない。
 だけど、冷静になって考えてみれば。
「あんなの、交通事故みたいなもんだろ」
 突然目にした女子高生を衝動的に尾行して、路地裏まで追い掛けて、そこで天文学的な数字の悪い奇跡を引き当てて化け物に襲われて、それを奇跡を引き当てて切り抜けて。
 そんな奇跡と偶然にまみれた、第三種接近遭遇じみた出遭いがそうそう何度もあるわけがない。
「……普通に生きてれば、あんなのに会うこともないだろ」
 宏紀はそう自分に言い聞かせる。言い聞かせないと、またあの化け物に遭ってしまいそうで怖かった。
 もうあんなの目に遭うのはごめんだ。普段喧嘩なんてしない分、埃汚れにまみれた制服やいくつかの擦り傷を見た母親は卒倒しそうになったし、非暴力主義の父親には膝詰めで説教されそうになった。普通の人を地で行く両親に「実は化け物に襲われて命からがら逃げ延びてきました」なんてファンタジーにしか思えない事実を吹き込むわけにもいかず、不注意で学校の階段から落ちたというベタな嘘で言い逃れをしたのも嫌だった。
 とりあえず、日常に戻ろう。
 まずは学生鞄の中身を入れ替えて――
「……あれ?」
 ない。
 いつもは寝る前に確認する定位置に、学生鞄がない。
(どこか別の場所においたまま寝たのか?)
 学習机の下。――ない。
 学習机の横。――ない。
 ベッドの下。――ない。
 枕元。――置くわけがない。
「どこにお隠れに……」そもそも、鞄は生きてなんかいない。
 結論。
「……もしかして、路地裏に忘れたのか」
 昨日、よく親に突っ込まれなかったものだ。幸い財布はポケットの中に入れる癖で家にあったが、これでは学校に行っても授業を受けられない。
「……朝も早いし、取りに行くか」
 両親ともども朝が早いのが幸いして、朝食を早く摂ることだけには困らない。
 買い置きのデオドランドペーパーで全身の汗を軽く拭き取り、半袖シャツに腕を通しスラックスをはき、重みのない右手に不安を感じながら宏紀は部屋を出た。

   †

 天音を追って歩き回ったり走り回ったりしているうちは全然気付かなかったが、昨日は家からかなり遠い位置の路地に入っていたということを、遅ればせながら宏紀は実感していた。思ったよりも路地裏が複雑で遠い上に、朝とはいえ夏の日差しが徐々に体力を削り取っていく。無駄に白い石で作られたマンションや石畳の路地から照り返してくる光がまぶしくてたまらない。
 歩くこと十数分、目的の路地裏は昨日の騒動の痕跡がいくらか残っていた。
 さすがに投げ捨てられた少年はもうなくなっていたが、あの化け物の髪に穿たれた石畳の穴や血痕は、宏紀に現実を認識させる。
 昨日から何度目になるかもわからないため息を深くついて、端に無造作に投げ置かれた学生鞄を手に取った。実に手に馴染んだ重さで、昨日とっさにこれを武器に使った理由がなんとなく分かった。そして、日用品を武器にした自分の考えに怖気が走った。
 蓋を開けて、中身を確認する。鞄の外観は埃まみれで汚れてはいたが、中身は案外と無事なようだった。もしかしたらシャーペンやら定規やらが折れているのかもしれないが、それはコンビニや高校の購買部で買い直せば問題はないだろう。
 家から持ち出した別の手提げ鞄に必要な教科書やノートは詰めてきたから、そのまま学校に行けばいい。
 そう考えて路地裏から出ようと振り向いたところ、人影が一つ目に入った。
 真っ当に黒い髪に、半袖の白いパーカーを羽織る、身の丈百六十数センチくらいの細身の男。歳もそこまで宏紀と離れているようには見えない。ダークブラウンの瞳が、じっと宏紀を捉えていた。
「……や、奇遇」
 その男は、場違いなくらい明るく声を上げた。
「こんな時間に、こんな路地裏で何をやってるんだ?」
「そりゃオレの台詞だね。オレを尾行でもしてきたのか?」
「いいや、偶然だよ。僕にはそういう趣味はないから」
 捉えどころがない男だと思ったが、自分も捉えどころのない質問をした気がする。
「ところで、オレは学校に行かなきゃいけないから、そこをどいてほしいんだけど?」
 男はうつむき目元を押さえると、低く呟いた。
「……起動」
 顔を上げて、彼は首を横に振った。
「ところでさ、犯人は現場に戻るって言うのは都市伝説だと思うかい?」
 ダークブラウンだったはずの男の瞳が、紅く染まっている。
「まあ、答えは聞いてないんだけど」男は自分勝手に話を進める。「でも、こんなに特徴的な痕跡が残ってて、こんなに特徴的な場所じゃあ、戻ってくる奴が犯人だと疑っても、一番最初の推理としては間違ってないんじゃないかと僕は思ってるんでね」
 男が右手を宏紀に向かって開いた。
「そうなんだろ、名前持ち【ネイムド】?」
 宏紀の背筋が粟立つ。
 夢で見るどころか、よりによってこの場所でもう一度化け物の類似品に会うなんて。
 それでも、まともなヒトの外見をしているだけ、会話が通じそうなだけマシではある。
「どうだか。オレには関係ない」
 わずかに腰を落として、一気に横を走り抜けられるように力を溜める。妙な名前に取り憑かれたおかげで向上した身体能力は、こういう時には役に立つはずだ。
 地面を踏み抜いて駆け抜けようとする直前、

「――剣、定型二番」【obj=RUBY::S_HISAKA.generate(sword, preset=2)】

 その声が、宏紀の目論見を完全に叩き壊した。
 男の右手の周囲が濁り、朝の空気をくすませる。ブラックホールに光が吸い込まれるようによどんだ空気から、直線状の何かが生まれ出た。
 黒色の鍔。
 同じ色の柄。
 何より奇特な、透き通るような青色を示す片刃の刀身。
 男はそれを軽く振り回して右手の内で回転させると、その手を下ろし半身に立った。
「……案外と、動揺しないね?」
 男にそう指摘され、ようやく宏紀は自分の姿勢が変わってないことに気付いた。
「……チッ」
 逃げられない。
 一度バックステップで前のめりな体勢を戻し、軽く拳を握る。
「何なんだよ、お前……」
 逃げられないなら、一度叩きのめしてでも隙を作って逃げ出すしかない。幸いあの化け物女と違って、武器があの剣と刀のあいのこのようなアレだ。直線的な固体なら、動きはあの曲線的な髪より読みやすい。
 あれが自分の名前になっているらしいというのは気に入らないが、あのグリッド線が役に立つのは確かだ。
「……へえ」 男が、笑うように唇をゆがめた。
「やる気なんだ。順応早いね、キミ」
 何もないはずの、グリッド線が置かれている空間をなめるように眺めた後、男はその紅色の瞳を煌々と燃やして言った。
「後先考えない勇気に敬意を表して、先に名乗ろう。
 ネイムド、《ルビー》……行くぞ!」
 その言葉と同時、猛烈な勢いで青い光が突進した。辛うじて突き出された切っ先を体捌きの範囲で避けたと思ったが、次の瞬間には足元に後ろ廻しされた左足の踵が迫っている。
 男の左手が、赤色の光を放つ。
 飛び上がって避けることを直感的にためらい、宏紀は甘んじてその足払いを受けた。痛くはなかったが、気持ち悪くなるような浮遊感が臓腑を襲う。いっそ気持ちいいぐらいにひっくり返った足と頭の位置を、両手を突いてバック転の感覚で元の位置関係に戻して男と距離を取る。
「ちぇ。見え見えの足払いをジャンプで避けてくれるのを期待したんだけどな」
 何か罠が仕掛けてあったのか。
 位置関係は変わらない。まだ出口は男に握られたままだ。
 手の内で何度か剣を回転させ、また男が仕掛けた。真っ向からの唐竹割りを、宏紀は最小限の動作でかわす。直後目の端に赤い光が映り、出口に駆け出すのをやめてとっさに身を伏せた。頭上を、鮮やかな赤光が凄まじい速度で抜けていく。
「クソッ、反則くさいことばっかしやがって」
 前転受身の要領で隙をなるべく消し、ついでに鞄を回収して起き上がる。出口を背負ったが、相手に遠距離攻撃があるのでは逃げ出す前に攻撃される。あの赤い光にどれほどの殺傷力があるのかは分からないが、当たってやるわけにはいかない。
「へぇ……じゃあ、こんなの、どう?」
 言葉と同時、宏紀に背を向けたままの男が剣を正確に宏紀に向けて投げ放った。武器をいきなり投げてくる発想に面食らい、宏紀の思考が一瞬止まる。それでもグリッド線に沿って飛んでくる武器を避けるのには辛うじて間に合った。
 宏紀に向き直った男は、また同じ意匠の剣を右手に持っていた。
「……てめえ、やってくれるな……!」
 昨日到達したあのSTGのボスを思い出す。開幕の高速レーザーを避けた後の弾壁には意表を突かれたが、さすがにこの男も弾幕を張ってくるだけの実力は――
「じゃあ、次はこんなので。……踊ってくれるかい?」
 いつの間にか、男の両手にデリンジャーが握られている。剣は石畳に突き立てられ、赤い目が爛々と輝いた。
 足元目掛けて、両手の古風な拳銃から弾丸が乱射される。弾は《ルビー》とやらの能力か何かで生成し続けているのか切れる様子がない。兆弾が無茶に跳ね回るせいで前にも横にも進めない。
(こいつ……馬鹿なのか?)
 なら、後ろにしか道はない。しかし後ろは路地の出口だ。後ろにしか逃げられないということは、
(わざわざオレを逃がしてくれる、と)
 馬鹿に付き合う義理はない。
 じりじりと、弾丸に押された振りをして宏紀は着実に出口に近付く。
 あと一歩。
 その時、背に固い感触を得た。
 後ろを向いて謎の感触の正体を目視確認する。おかしなものは何も見えない。何もない。
 ひゅん、と背後で空を裂く音。
 顔から少し離れた場所で、男の剣が空中に鋭い音を立てて突き立った。
「そう易々とは逃がさないよ?」
 男の言葉と同時に、不可視の壁とでも言うべきものが、全体を紅く瞬かせる。宏紀もとっさにその壁に足をかけ――硬い、蹴り返せるだけの感触がある――壁を蹴って大きく離れた。
 壁が、炸裂する。
 赤色の0と1が壁にまとわりつき、侵食し、分解していく。その過程で火種のないはずの場所で炎が燃え上がる。視覚だけのフェイクなのか、熱を伴う本物なのかは怖くて確認できなかった。めらめらと煙も出さずに壁が燃え、当然のように炭も灰も残さず燃え尽き消えた。
 からん、と、壁に突き立っていた剣が落ちて音を立てる。
 呆然と立ち尽くす宏紀の目の前で、もう一度0と1の鎖が空間を埋め尽くす。燃焼することなく数を増し密度を増した鎖は、白色の壁として具現した。
「驚いたかい?」
 男に声を掛けられ、ようやく宏紀は振り返った。この男を少なからず一発ぶん殴らなければ、どうにもこの場所からは出られないらしいという実感は、いくらなんでも遅れすぎたと自覚する。
「これが僕の名前――《ルビー》さ。プログラミング言語から生まれたこの名前は、世界を覗き込んで、かつ世界に簡単な書き込みだってできる」
 男が誇らしげに胸を張り、右手のデリンジャーを、トリガーガードにひっかけた人差し指でくるくると回した。適当に銃をもてあそんだ後、男は両手のデリンジャーを0と1に分解した。
「それじゃ、自己紹介も済んだことだし……キミの名前も、そろそろ教えてもらおうか……!」
 鞭、定型一番。【obj=RUBY::S_HISAKA.generate(whip, preset=1)】
 低く呟かれたその声と同時に、長い0と1の紅い鎖が宏紀に向けて伸びる。常人には捉えられないだろう速度は、しかし宏紀にはほどよいものだった。スナップがきいた綺麗な一撃は、それゆえに軌道が読みやすい。
 宏紀が、右手の鞄を石畳に転がした。集中し、グリッド線と鞭の中途を凝視する。
 コマ送りの世界の中で、左手を伸ばす。
(視えた……!)
 鞭を、臆さずに、掴む。
 掴んだ瞬間に思いきり強く引き、同時に石畳を強く蹴って加速する。
 虚を衝かれた男がよろめく。
 空中で、弓手のように右手を引き絞る。
 こいつのように物理的に分かりやすい武器は、宏紀にはない。けれどその分、グリッド線を目安にした精確な動作が、ゲームセンターにおける宏紀の武器だったのだ。それを、この場で応用できないと言う理由は、ない。
 体のひねり、よじり、回転、跳躍の勢い、間合い。
 グリッド線を目安にそれを全て最適化し、ひねった体を身体のバネで戻し、その流れに乗せて右の正拳を突き出す――!
 男が鞭を持たない左手を伸ばして受け止めようとするが、弱い。勢いで拳を押し込んだ。
 男の左肩に、渾身の正拳突きが直撃する。本当は顔面を狙ったが、まだ慣れていないせいか狙いが逸れたらしい。男が吹き飛び、宏紀の左腕に0と1が絡みつく。しかし鞭は手放され、宏紀が引きずられることはなかった。
 派手に倒れた男が身を起こすと同時に、左腕の鎖が蒸発する。炎を伴ったが、特に熱や痛みは感じなかった。
「……どうだよ、多少は効いたかよ……!」
 構えはまだ解かない。この男がこのぐらいでダウンするとは思いもしていない。実際に、男は多少左肩をかばう動作を一度だけ見せただけで、すぐにリラックスした姿勢に直った。
「ああ、一発もらうとは想定外だったよ」男が微笑む。「でもこれでキミがどんな名前持ちか分かったから、これくらいは必要経費さ」
「気味の悪い笑顔なんて撒いてる暇があったらここから出せ」
 オレはさっさと日常に帰りたいんだ。
 吐き捨てた宏紀に、男は笑みを崩さずに言った。
「まさか、完全に戻れると思ってるのかい?」
 そして挑発する。
「戻りたかったら僕を倒してみなよ、《アルカナルーラー》!」
 自分の唾棄すべき名前。
 それを二人称として使われたことに、宏紀は逆上した。
「ならお望みどおりにしてやるよ……!」
 男との間のグリッド線が際限なく細かくなる。より精確を期すために、グリッド線を凝視して全力で地面を蹴った。
「……世界線間隔を書き換える」【$system.unit+=rand(TIME)】
 男が、《ルビー》としてその言葉を呟いた瞬間。
 グリッド線が、その間隔を滅茶苦茶に歪めた。
「………………ッ!?」
 グリッド線を凝視していた宏紀が、足をもつれさせて体勢を崩す。
 その瞬間を、男は見逃さない。
 側頭部を狙った、お互い様とはいえお世辞にも上手いとは言えない回し蹴り。
 手をかざして受けようとした宏紀の顔が、驚愕で埋め尽くされる。
 足が赤い光をまとったかと思うと、蹴りが宏紀の手を文字通りすり抜ける。
 古典的物理法則を無視して側頭部に突き刺さった蹴りは、宏紀の意識を的確に刈り取った。

   †

「やあ、お目覚めかい?」
 意識を取り戻して聞いた第一声は、挑発的な軽い声だった。
「……何でわざわざオレが目覚めるまで待ったんだよ……」
 不可解な奴だと宏紀は白パーカー男の心証を書き換える。あれだけ一方的に襲い掛かってきておいて、いざ気絶させたら手持ち無沙汰に人の寝顔(安らか、と言うには苦しげだったろうが)を見てるだけ、というのはどうにも解せない。
「止め、刺さなくていいのか?」
「どっかで聞いたようなコト言うね、キミ。名前に目覚めたばっかりの割には命知らずってやつ? 幸せに生きられないよ、それ」
 呆れたように白パーカー――《ルビー》は言った。
「僕が興味あるのは、キミがどういう経緯でその名前に目覚めたかって言うのと、他にこの町に名前持ちがいるかってコト。生憎、築都住まいじゃないんでね」
 わざわざそのためだけに、誰も出くわさない可能性の大きな、数多くある路地裏を決め打ちか、ないししらみつぶしに回ったということか。
 馬鹿馬鹿しい、という言葉は飲み込んだ。
「……ま、学生は夏休みを満喫しないとね。今週末の花火大会とか」
「その夏休みを削ってオレは今日課外なんだけど、他校生に喧嘩売られて遅刻したことに対して誰が責任持ってくれるんだ?」
「当店の料理は全てセルフサービスとなっております」
 くつくつと笑みながら男は返した。
 訂正。やっぱり馬鹿馬鹿しい奴だ。
「まあ、いいや。キミの本名を聞いておかないとね。いちいち秘密結社のコードネームじみた名前のやりとりなんて嫌だろう?」
 それは確かに、そうだった。

「……へえ。キミの他に、名前持ちは少なくとも二人いて、一人はかなりキてる奴だ、と」
 少年説明中【かくかくしかじか】、と省きたくなるような、事実を吐き出すだけの会話を数分間続けた後、白パーカー――日阪暁嗣はそうくくった。
「で、キミはそのキてる奴に襲われる中で《アルカナルーラー》という名前に覚醒した、と」
「その名前を何度も言ってくれるなよ。まだオレの名前だと認めたわけじゃない」
 どこの誰が、どんな思いでつけたかわからないような名前なんて記号でしかない。そして宏紀は記号を自分の名前とは認めない。
「世界の銘名行為なんて馬鹿馬鹿しいぐらいに単純なものさ。つけられたほうはゴルゴに狙われた……いや、手当たり次第に誰かが配った当たりつきダイレクトメールの当たりを引いたようなものかな」
 ため息をついて、日阪が続ける。
「僕たちが与えられた名前は、なんかもういろいろとイッちゃった世界が、壊れたところでバランスを取ろうとしてばらまいてると考えてくれ。もう何ていうか、理由なんてないんだ。まあ、キミみたいに受け入れない選択をするのもひとつの手だけど。結局、どこかで馴染んでしまうんだ」
 キミがゲームセンターであのSTGに挑戦してるようにさ。
 そう言われたときには、さすがに宏紀はぎょっとした。
「いやー、実は好きなんだよね、あの人類挑戦系STG。昨日、築都のゲーセン店員がアップしたあの動画を見て人間の可能性って凄いなと思ってたら、案外と近いところにそのご本人がいたとはね」
「……どうして分かった?」
「そりゃ、プレイヤーネームをヒロキってしてるキミが悪い」
 頭を抱えた。何せ注目されているとは思っていなかったのだ。
「それはともかくさ。僕はこのあたりの名前持ちの情報を集めて、できるなら有害な名前は排除したいと考えているんだ。……協力とか、してくれたりしないかな?」
 ダークブラウンに戻った目で、日阪が宏紀の目を正面から見た。
 じっと見返してから、宏紀も一言だけで返す。
「断る」
 日阪はあまりショックは受けていない様子で、ひらひらと手を振った。
「ま、キミの言い分じゃ、交わらないだろうしね。まあいいさ。僕は僕なりの方法でやり方を探してる途中だし、キミが協力してくれないのも無理はない」
 日常に戻りたいだろう?
 日阪の言葉が甘く響いた。
「じゃ、夏祭りには行くからもしかしたらまた会うかもね。名前持ちとして、キミに会わないことを祈るよ」
 飄々と、日阪は歩き出す。
 宏紀は、呆然と見送った。
「……つまるところアレか、オレはやられ損ってわけかよ」
 昨日から数えて何十回目のため息か、数えるのも馬鹿馬鹿しい。蹴られて今まで表面上まじめに勉強してきたことのいくらかが吹き飛んでいたら奴を探し出して文句のひとつでも言ってやる。
「……とりあえず、行くか」
 遅刻は確定しているが、学校に行かなかったなんて実績を作って学校側から親に連絡が行くのもまずい。深々とため息をついた後、宏紀はシャツについた砂埃を可能な限り払い落としながら、本来たどるべき通学路へと歩を戻した。


   ‡


 その日の夜。
 七月三十一日までだった課外前半は、最終日に遅刻するという締まらない幕を引いた。明後日には築都の大花火大会だ。一年に一度の祭りのために、明日はひたすらエネルギーを充填する日になるだろう。
 ベッドに体を投げ出すと、宏紀は今日の朝のことを反芻した。
 ――世界の銘名行為なんて馬鹿馬鹿しいぐらいに単純なものさ。
 自分よりも名前持ちとやらで先輩にあたる日阪は、極めて軽く言った。そういう意味で、彼は慣れているんだろう。《ルビー》も大概な能力を秘めた効果だったが、それ以上に日阪はこの世界に、名前を持った人間として馴染んでいる。
 ――オレとは大違いだ。
 名前持ちやってて楽しいのかとか。
 元に戻りたいとは思わないのかとか。
 聞けることは、いくらでもあったろうにと思う。
「……はあ」
 この二日間は、本当に幸せが逃げていく。
 ヘッドボードの引き出しの中に入った写真を取り出す。
 着物姿の綾巳と高峰家のご両親、そして宏紀と父親が写った写真。確か、綾巳が就職内定を得て、一度実家に戻って来た時の就職祝いに取った写真だったと思う。
 綾巳は順調に夢を叶えて、明後日にはさらに上の夢に手を伸ばす。
 自分は、どうだろう。
 まだ高校一年だからと、あまり先のことは考えないようにしている。けれどそれでいいのだろうか。今の生活も、もちろん《アルカナルーラー》なんて名前を押し付けられたこと以外は気に入ってはいるが、どうしても生活に軸が見出せない。
 綾巳や両親は、社会人として仕事を軸のひとつにしている。宏紀だって高校生だから学校生活は軸のひとつにすべきなのかもしれないが、入学して四ヶ月、未だに勉学に本腰を入れようとは思わないし、上下関係がややこしいから部活動もパスだ。ゲームセンターと自分の部屋で没頭するシューティングゲームは刺激にはなるけれど、軸とするには手元に残るものがない。
 天音や日阪は、あるいはあの悪友だって、自分が軸にしているものを見出しているのかもしれない。
 軸があれば、揺らがない。
 自分にしっかりとした軸があれば、《アルカナルーラー》なんてものに動揺することもなかったんじゃないか。宏紀はそう内省する。
 自分から、グリッド線を意識して読み込む。
 世界を区切る、宏紀だけにしか見えないはずのグリッド線。
 それを日阪に乱されたのも、きっと自分が軸にすべきものがないからだと思う。《アルカナルーラー》を受け入れられない宏紀は、確かに名前持ちとしてはまだ弱いのかもしれない。
 ――だからどうしたって言うんだ。
「オレは名前持ちとやらとして延々生きるつもりはないし、まだこのぬるい日常生活ってやつのほうが好きなんだから」
 声に出して再確認する。
 でも、日常を乱すあの化け物の顔をもう一度見たらどうする。
 自分はもう一度戦うのか。
 それとも日阪のような好戦的な名前持ちが来るまで逃げ切れるのか。
「……やな感じだ」
 考えてしまう。
 あれには、もう一度遭ってしまうのではないか。
 そのときどうするかを考えることを先送りにして、宏紀は部屋の明かりを消した。