nearby 「ねえ、アイツってウザくない?」 花のように笑っている生徒を見て、一人の女子が隣にいた友人に話を振った。 「そうよねー。なんかあの笑い方がいかにもセンセーの点数稼いでますってカンジぃ?」 「そうそう、気に食わないのよね、あの笑い方。……とりあえず、さくっとヤっちゃう?」 わたしは、会話を間近で聞いていた。けれど、止めようとも入ろうとも、思うことはなかった。 「いいねソレ。アタシは人数集めてくる」 「私もダチに声かけてみる。いつまであーも笑ってられるか見物よね」 ――だって。 そのときは、他人事だと思っていたから。 ‡ 「みなさん、小テストは終わりましたか? 解答を配りますから、隣の人と交換してくださいねー」 英語の小テストの時間が終わった。手元にある解答用紙は白紙に近く、答え合わせなしでも追試が確定して心が重い。 ――おい赤市、どうするよ? ――えー、オレは黒沢ちゃんには目ェつけられたくないからよ……。 「あの、交換……」 「ほい、木島」 耳を澄ませなくても、いつものように聞こえてくるやり取りに、内心飽き飽きしながら教室を見渡す。 一人の女子生徒を無視するクラスの行動。 佐藤マシロ。それが生贄の名前だ。キレイな髪とキレイな心を持った、笑顔の明るい少女――それが、彼女に対しての第一印象だった。 解答プリントが回ってくる。マシロを飛ばすのはクラス全体としては当たり前で、誰一人と自然に、まるで息をするみたいにやっている。わたし――藍川サヤは教室の一番後ろの席で、マシロと同じ列に座っていた。マシロ飛ばしに参加したことはないけれど、止めようと思ったこともなかった。 プリントは、いつものように一枚多い。いつものように余ったプリントを前にいるマシロに持っていこうと腰を浮かせて―― 「藍川。……分かるでしょ?」 隣から声を掛けられた。小テストのパートナー、黒沢マキ。クラスの、いわゆる女番長で、マシロを取り巻く環境を作り出した張本人だ。 いつものように、睨みつけられて、動けない。 「……先生、プリントをください」 「あれ? ……分かったわ。ほら、これ」 そうしている間に、またいつものようにマシロは先生から解答を受け取る。クラスが、これまたいつものように嘲笑で溢れる。 笑わなくなったマシロ。ソレを見てご満悦の黒沢やクラスメイト。見ているだけのわたし。 ……ダメだと分かっていて、わたしは何もできない。なにも、していない。 見るのが嫌なぐらい、飽き飽きとしているのに。 ◇ 昼休み。思い思いに散らばったクラスメイトは、やはりマシロを避けて座っている。教室中央近くにあるマシロの席、その周りはいつも空白だ。誰も、この時間に……いや、この時間だからこそ近寄ることはない。 ――まるで、透明な牢獄。 「……よっし、送信終わり」 少し離れた窓際の席で、黒沢が小さく快哉を上げた。その少し後で、ケータイのバイブ音が響く。……マシロのだ。 マシロはケータイのフリップを開いて、すぐに閉じた。見える横顔に、何も感情が映っていない。まるで、機械だ。 「なにマキ。まだやってんの? それとも、またやってんの?」 そう声を掛けたのは、黒沢のグループの中でも特に目立つ女子生徒、シキだ。けらけらと綺麗な顔を歪めて笑う。 「いいじゃない。ホントウノコトをオシエテあげてるだけなんだし」 きっと、メールでも送りつけたんだろう。それも、ひどい中身の。 部活の友達が誇らしげにそんなメールを見せてくれた事があった。 ――『世間様の恥とは思わないの?』とか、 ――『社会の邪魔なんで死んでください』だとか、 ――『事を起こすなら早めにしてくれ』だとか。 初めて見たときは、目の前が真っ暗になった。 ――あのメールは、およそ同じ高校生が、同級生に送るようなものとは思えないシロモノだ。 それを、マシロはたった一人で耐えている。 (ねえ、まだアイツいるの?) (さっさといなくなればいいのに。わたしたちにとっちゃ邪魔なのよ) クラスメイトの女子がごちゃごちゃと言っているのが聞こえる。マシロの席の近くで、ひそひそとやっているつもりでもわたしの席まで届いている、聞こえよがしの嫌味――。 「まだ続いてるの、あのいじめ?」 友達の一人、アキがその話題を振って、弁当の蓋を閉じた。 「結構続いてる。……なにも、わたしはできないけど」 「マシロちゃんも何も言わないしね。センセイも知らないんじゃないかな?」 はさまれたアキの言葉に、ナツが首をひねる。 「なんで、いじめられてるんだっけ?」 軽い、胸の痛みを感じながらわたしは答えた。 「……分からないよ、そんなの。最初は、本当に笑顔がキレイだったよ。でも、いつぐらいからかクラスぐるみで無視されて、ひどい扱いされて……今じゃ、全然笑わない」 アイマイね。アキはそう言って顔を伏せた。 「正直に言って、私はなんで『いじめる』のかが分からないよ。幼稚な事じゃない? 退屈しのぎ? それとも、仲間を作りたいだけ? 群れないと何もできないって? ――くだらない。まったく、この年にもなって……」 ナツの声は大きい。もしかしたら黒沢たちに聞かれて、 「ナツっ! ……そんなこといって、聞かれてたら……っ!」 私の小さな叫びに、ナツは嗤って返した。 「それが何か? あたしは別のクラスだから、このクラスのことはよくわからないけど。 じゃあ――あんたは何かやったわけ? いじめた側? いじめられた側? どっち?」 「っ……!」 打ちのめされた。 握っていた箸が、床に落ちるのが他人事みたいに見える。 「先生たちに言った方がいいと思う?」 そう問うたのは、アキだ。 「……告げ口みたいで、イヤだけど……でも、マシロちゃんのことを考えたらそれがいいよね。サヤ、どう思う?」 わたしは、答えられない。 ヒドイ奴だ、と思われるかもしれない。マシロのイジメはじきに終わるだろうと考えていたし、わたしにはあまり関係がないと思っていたから。それに、黒沢たちに逆らうのは怖かった。あいつらが自分をターゲットにするんじゃないかって。 そう考えて、初めてマシロと話したときの、キレイな笑顔がココロに滲んだ。 ――タスケテ。 ナニモシテクレナイノ? もう思い出になってしまっている彼女の笑み。はっきりと心に描き出せるぶん、わたしには、痛い。 「……答えられないんなら、いいよ。すぐに答え出せる問題じゃないし、ね。 数学の証明問題とは違うんだ。でも、誰かひとりの問題でもない。――これは、みんなの問題だよ。学校規模の、ね」 ナツがそう言って、予鈴が鳴り響く。 わたしより、違うクラスのナツがマシロのことを思いやっている事に、わたしはどうしようもなくみじめになった。 ‡ 放課後、もう部活も終わる時間だ。必死に机に向き合っていたわたしは、後ろから肩を叩かれた。 「サヤ、溜まってた宿題は終わった?」 ナツのそっけない言葉が、耳に滑り込んできた。最後のイコールと右辺を書いて、証明終了。解答は提出後に先生が返却にあわせて添えるので、採点する必要はない。 「全ッ然。二時間で数学のプリント二枚ってどう?」 「遅すぎね。ま、一枚も出さないよりマシじゃない。とりあえず、出して帰ろ。アキも待ってるよ」 鞄に筆記用具をしまい込み、掴んで立ち上がる。 「じゃ、出してくるね」 「茶野先生……って、マシロ?」 職員室の中で、茶野先生――担任で、英語の先生――とマシロが話していた。俯いて喋るマシロの頬からは、透明な何かが絶えず零れ落ちていて、茶野先生はマシロをやさしげに抱きしめていた。 「いじめについて……かな」 後ろから追いついてきたアキが、感慨深げに呟いた。 「すごく出しにくい雰囲気だけど。サヤ、待つ?」 「いや、いいよ。明日でも大丈夫だし」 本当だ。溜まりに溜まった宿題は、早く出そうと思ってもなかなか決心できるものじゃない。今日も先送り、昨日も先送りにした。明日も先送りにしてしまうんじゃないかと、不安になる。 無言で、廊下を進む。ぺたりぺたりというスリッパのこすれる音だけが響いていて、校舎は生気なく、まるで海の底に沈んだかのように静かだ。通る先生も生徒もいないし、漏れ出る職員室の光は夜の闇の深大さに比べれば、まるで蛍。 昇降口を過ぎ、校門で、わたしとアキ、ナツの二手に分かれた。 「ばいばい、ナツ。また明日ね」 「んじゃ、そういうことで。じゃーね、サヤ、アキ」 別れて、五分、十分と交通量のそこまで多くない道路を歩く。 マシロが泣いているのを見たからだろうか。 普段は明るい話題の絶えないわたしとアキの間も、今日はなんだか冷え切っていた。 「今日もまたあっという間、だったなあ……」 わざと、明るく声を出してみる。今だけでも、マシロの重さなんて忘れてしまいたかった。 「ねえ、サヤ」 けれどアキは、真面目な固い声でわたしを呼んだ。 「さっきナツには話したんだけど、マシロちゃんへのいじめ、どうにかできないかな?」 心臓を、わしづかみにされたような気がした。 ――どうして、そんなことを言うの、アキ。 忘れようとしたマシロの泣き顔が、急にこだまし始める。 『……助けてよ』。そういう叫びが耳の中で反響する。 「私もナツと同じでサヤとは違うクラスだけど。このままじゃ、余所者の私から見ても大変な事になるって分かるぐらい、今のサヤのクラス、おかしいよ」 深呼吸して、アキは俯いた。 「私も、昔、いじめられた事があるの。そのときはナツに力を貸してもらって、なんとか解決できたんだ。だから、なんとなくだけど、マシロちゃんに共感できるんだ。……だれも周りにいなくて、さびしがってると思うの」 いじめについて考えなくちゃいけない。だから、力を貸して。――アキは、そう言った。 ハンマーで殴りつけられたような衝撃が、全身を駆け抜ける。 「急な話でゴメン。だけど、今日の昼休みのことを見たら……何かしないと、って思って。考えてもらえないかな? 返事は、いつでもいいから」 「……うん」 わたしは、力なくうなずく事しかできなかった。 どうして。 近いはずの私より、遠いはずの彼女たちの方が、親身になってマシロのことを考えていられるんだろう? 「じゃあね、サヤ。また明日。……お願いね」 アキが、自分の道を進んでいく。 一人になって、ふと立ち止まった。 交差点にわたしは立っていた。アキの家は左手側に曲がった方向にある。わたしの家は、直進しても右手側に曲がっても、大して歩く距離は変わらない。 ――わたしは、どうしたいんだろう。 アキもナツも、クラスは違うのに、ほんの少しの関わりしかないマシロを助けようと前向きになっている。 じゃあ、二人よりも関わりは深い、わたしは? ――何もしてないじゃないか。 どうしよう。 どうすればいいんだろう。 迷う頭は、交差点で道を選ぶことができずに、ただがくがくと脚を震わせた。 ‡ その晩。わたしは両親に聞いた。 「ねえ、母さん。わたしがいじめられてるとしたら、どうする?」 アキやナツの言葉に感化されたのだろうか、聞くことにためらいや恥じらいはなかった。 「急な質問ね……。サヤをいじめた人たちに適切な処置がなされるまで、先生や学校、教育委員会、PTAに訴えるし、話し合うと思う。場合によっては、もっと強く出るかもしれない」 考えながら、途切れ途切れだったけれど、母さんは答えてくれる。もっと踏み込んで聞いてみた。 「じゃあ、わたしが誰かをいじめているとしたら?」 自分は直接手を出してない。だから、この話はわたしにとっては“イフ”。 「張り倒す」 端的に答えたのは、父さんだ。 「いじめは、極端な言いかたをすれば集団生活の中で起きないはずがない、災害みたいなモノでもある。誰だって優越感を感じていたいし、誰かを見下さないとアイデンティティが保てない歪んだ奴だっている。弱い奴にそのしわ寄せが来る……そういうもんじゃないのか」 眉間に皺を深く刻んで、父さんは一度うつむいて、わたしの目をまっすぐ見つめた。クリアで直線的、しっかりとした視線にとらえられて、目を離せなくなる。 「少なくとも、父さんなら許せない。いじめてる奴は弱い奴によってたかってくるし、いじめられてる奴も自分の心をしっかり持たないといけない。人の心の弱さがいじめを呼ぶし、無くすのは確かに難しいだろう」 わたしが一度だって考えたこともないことを、父さんはずらずらと並べ立てる。 「――もちろん、これはあくまで俺の意見だ。他の人に聞いたら、きっと違う答えが返ってくるだろう。その中でも、父さんが思ってることはひとつある。 必要なのは『呼びかけること』じゃないのか?」 いじめられてる奴の殻を破れるのは、外から見てる奴なんだ――。 じっとわたしを、まるで子供みたいに一途に見つめる父さんの言葉が、もう今日何回目になるか分からない、強い衝撃になってわたしを打ちのめす。外からマシロを見続けているわたしは、いったい何をやってきただろう? あたまのなかがカクテルシェイカーで切るように混ぜられたみたいに、あたまがこころについてこない。 「長く難しいことを言わないの。サヤも混乱してるでしょ。 ……私なら、本当にいじめたのかどうかを確認するかな。それから……」 俺は言い切ったぞ、という満足げな表情をしている父さんの代わりに、母さんが言葉を継いだ。 だけどわたしは母さんが考えている途中に、思わず話の腰を折った。父さんの言葉が心をぐちゃぐちゃに塗りつぶしたみたいに、 「いじめてるにせよ、いじめられてるにせよ、どう思う?」 ――自分が何を考えているのか、わからない。 「……一言では言えないわ。悲しむと思うし、怒ると思う。他にも、きっといろいろな事を思うはずね」 「父さんも同じ意見だな」 両腕を組んで偉そうに胸を張る父さんと、顔をわずかに伏せていて表情が読めない母さん。 集まる二人の視線が痛くて、わたしは、立ち上がった。 「じゃあ。 ――わたしが、ただいじめを“見ているだけ”だとしたら?」 答えを聞くのは怖かった。 だから、逃げるように自分の部屋に閉じこもった。 ドアを後ろ手で乱暴に閉めて、ベッドに飛び込む。自分が現実を見たくないときによくやっている、自分でもうんざりするような癖だ。 ――いじめられてる奴の殻を破れるのは、外から見てる奴なんだ。父さんの言葉が耳から離れない。心臓は静かにはねているけれど、心はまだ波打っている。 わたしは今まで何を見てきただろう。 わたしは今まで何をしてきただろう。 頭の中で、マシロの笑顔が断続的にフェイドする。黒沢の笑いが断続的にこだまする。 両耳を両手で覆った。雑音がうるさい。高らかな嗤い声と、涙の跡が網膜でちらつく。 ――どうすればいいんだろう。 何をすればいいんだろう。 ……いままで何も考えずに日々を送ってきたわたしは、やるべきことがまったくわからなかった。 ‡ 「さっさと席に着く! 静かになさい!」 遅刻寸前だった翌日。茶野先生の声が、ホームルーム直前の教室に響いていた。 プリントを配る。マシロは当たり前のように飛ばされて、そして茶野先生が直接、マシロの机にプリントを持っていった。横目で黒沢の顔を盗み見ると、彼女はまるで映画のチープな悪役のように憎悪をむき出しにして先生を睨んでいるようだった。 群れないと何もできないって? ――くだらない。そう言ったのは誰だったろう? ごほん、という咳払い。若いのにこういう大仰な動作は得意な先生だった。 教室が、水ひとつ震わせない静寂に包まれる。 「皆さんに聞きます。このクラスで、いじめが起きているように思えます。そういう噂は職員の間でも広がっていましたし、信じたくはありませんが、このクラスを見ていると、噂が本当であるという気がするのです。 ――教えて下さい。ホントウのコトを、私はあなたたち、クラスの皆から聞きたいのです」 マシロがついに言ったのか。 まさか、誰かがチクったの……? 教室がざわめく。マシロの体が、一層小さくなっているように見えた。先生を見上げ、小柄な頭を弱々しく振り、そのままうつむいた。 「この中で、いじめに関わったという生徒は手を挙げなさい。隠していても無駄ですよ。――目星は、ついています」 誰も、動かない。黒沢やシキは相変わらず、先生を睨みつけていた。 「仕方ありません。今配ったプリントは白紙です。コレに、あなたたちが知っている事、思っていることを書いてください」 心の中で、凄まじい重さが生じた。顔を上げられず、腕も、指も、まぶたさえも動かせない。 「皆さん、いじめられる人の気持ちになって考えてください。自分の事だと思ってください。嫌でしょう? 辛いでしょう? 嬉しいと思う人、楽しいと思う人はいないと思います。いじめが素晴らしいことだと思う人なんていないでしょう? もし、分かっていてやっているのなら――私は、その人を疑います」 ――それは弾劾。 いじめがあることを分かっていた。分かっていて、わたしは、我関せず、同じ高さからその行為を何も考えずに傍観している――。 結局。 わたしは、配られた真白の紙に、何も書き込むことができなかった。 ‡ 数日が経った。マシロへの仕打ちは表面上エスカレートする事もなく、ただ弱まることもなく、わたしは『いつものように』過ごしていた。 ベッドの上で、自分のケータイを見つめる。 ――『世間サマの恥だとは思わないの?』 ――『社会の邪魔なんで死んでください』 ――『事を起こすなら早めにしてくれよ』 マシロに送られていたメールの内容を思い返す。まるで人間を人間としてみていないような文字の羅列が、強烈な吐き気を伴ってフラッシュバックした。 マシロはいつだって一人で戦ってきた。誰にも負けないように、誰にも勝てないけれど。陰湿すぎる攻撃に、耐えてきたのだ。 ――マシロちゃんへのいじめ、どうにかできないかな? だれも周りにいなくて、さびしがってると思うの。 アキの思いやり。 ――くだらない。 数学の証明問題とは違うんだ。でも、誰かひとりの問題でもない。 ナツの静かな叫び。 弱々しく頭を振るマシロの後ろ姿。 ――迷っていたのは、心の弱さだ。 黒沢たちを恐れていた。自分がいじめられるのが怖くて、見て見ぬふりをしていた。 だけどもう、やめにしよう。 強くあろう。自分に負けたらダメなんだ、と。 ――いじめられてる奴の殻を破れるのは、外から見てる奴なんだ。 父さんの言葉が思い出される。 傍観者から抜け出そう。マシロを助けよう。 恥ずかしくたっていい。代わりに自分がいじめられてもいい。 大切なのは、『殻を破る』ことなんだ。 心の重石が、ふっと軽くなる。 十一桁の数列――指に染み付いた番号をケータイに打ち込む。 通話ボタンを押して、数回のコーリングで繋がった。 『……サヤ?』 「アキ。……わたしも、協力するよ」 恥ずかしくて、すぐに電話を、一方的に切った。 もやもやとした感情に終止符を打って、わたしは勉強机に向き合った。 今日の宿題は、経済のノート五ページ分―― 「いけない、学校に忘れた……!」 学校に取りに行かないと。経済のあの宿題は忘れたらとんでもないことになる。 純白の長袖シャツを急いで羽織り、部屋を飛び出す。 居間にいる父さんに一言、忘れ物を取ってくると告げて夜の道を駆け出した。 夜の道は暗い。わたしの決心を崩しそうなほど透き通っている。 五分、十分と走って到着した学校は、不気味なほどに静かだった。 夜道を照らしてくれるのは、空に浮かぶ月と星だけ。靴ごしに感じる影色のアスファルトは無機質な感触。 満月の灯は、外から見ても明るい。 透き通る光が、校舎を静かに彩っていた。 昇降口でスリッパに履き替え、誰もいないことを願いつつ忍び足で階段を上る。 ――扉は、開いている。 木製の手すりを掴み、石の階段を上る。 少しずつ、目的の、自分の教室が近付いてくる。 ――月の光が、廊下を撫でた。 教室の扉も開いていた。 一歩、歩く。 一歩、歩く。 一歩、歩く――“ぴちゃり”。 足元で、何かの液体を踏む音がした。 え、と自分の声と思えないわたしの声が響いた。 わたしの机のひとつ横。黒沢の席で、何かが光った。鈍色の光だった。 一歩踏み出し、ぴちゃりという音を聞いて、 そのとき。 月の光が、教室を貫いた。 わたしのソックスを染める紅い何か。 黒沢の机には、誰かが臥せっている。 月の光だけでも分かる、その笑顔は。 どうしようもなく、見間違いようもなく。 佐藤マシロ、彼女の、わたしが憧れた微笑みだ。 膝から崩れ落ちた。 これは夢なのか。違う。 これは現なのか。違う? こんな格好。こんなタイミング。 まるで、わたしが殺したみたいじゃない――。 月の光に照らされ、鈍色の光を放つ剃刀が見つかった。真白の襟元を染め上げる紅は、きっと頸を切り裂いたに違いない。 助けようって、 決めたのに。 ――どうして。 ぐらり、と、真っ白な体が傾いだ。視界が揺れる。 幸せそうなやわらかい笑顔。もう届かない。 膝に伝わる温度は限りなく冷たい。――もう、マシロは――。 「……あ、あ……」 現実を理解したわたしの脳が、勝手に動き出す。 「イヤァァァァァ―――――――ッ!!」 ‡ 「先生、実は……」 佐藤マシロが、一枚の紙切れを遺して、自らに終止符を打ってから、長い月日が経った。 彼女を死なせてしまったわたしが、今の仕事に就いているのは、わたしとしてはきっと自然なことなんだと思う。彼女のような子供は、二度と見たくなかったから。 そう。 わたしは今、スクールカウンセラーとして働いている。 わたしは、あの夜に血まみれになって倒れている所を、マシロと一緒に発見されたそうだ。マシロとの違いは、息があるかないか、それだけだった。二人とも制服を血に染めていて、まるでわたしがマシロを殺したかのような状態だったらしい。 わたしが、遅すぎたのだ。 あと一日、あと一週間でも早ければ、マシロは死なずに済んだのかもしれない。 けれどそれは、もう語ることの許されない過去でしかない。 イフを語ったところで、マシロは生き返るわけじゃない。それは、彼女の最期を看取ったわたしが、一番よく知っている。 最後の最後で、マシロは自分の殻を、自分から喰い千切った。――自殺という方法で。 最後の最後で、わたしは自分の殻を、破る事ができなかった。――今も後悔している。 代わりに、わたしはマシロに殻を破られた。彼女の死が、わたしに目的を与えた――皮肉な話。助けたいと決意した直後に、彼女は死んで。そして彼女のおかげで、今のわたしが在る。 わたしはもう、迷わない。 二度とマシロのような子供を、自分の目の前でひどい目に合わせないように、全力を尽くしたい。 スクールカウンセラーとしてではなく、藍川サヤという一人の人間として。 ときどき、わたしはあの夜の夢を見る。 あの光景を忘れる事は決してない。もちろん、マシロのことも。 けれど、あの光景がある限り、わたしは決して、かつてのように、いじめられている子供を避けることは絶対にない。 殻を破って、孤独を外に連れ出そう。偽善だっていい、救いの手を差し伸べよう。苦しみを共有しよう。和らげよう。 それは、マシロがわたしに教えてくれた、あの憧れた笑顔のなかにいつまでも輝いている。 ――――Fin. トップページへ戻る |