帰宅ラッシュの喧騒に紛れて、夕焼けを満喫しようと街に繰り出した。
 時間は五時過ぎ。夏の殺意はピークを通り越し、やや涼しい空気が上空を流れている。あくまで、上空を。
「……暑い」
 当たり前だった。帰宅ラッシュで人込みは最悪なレベルで街路に押し込まれている。暑くない、と言うのが無理な話だ。街に繰り出したといってもその先は繁華街。人が多くて当然。学校の教室に引きこもっているだけでも暑かったが、ここはそれ以上。
 どうして海岸はこの最低な繁華街を通らないと辿り着けないのか。――夏になればいつも思う疑問だ。
 トン、と。向こうから歩いてきた、同じ年ぐらいの少年と肩がぶつかった。背は高く、やや筋肉質で目つきが悪い。この暑い中長袖のジャンパーを着ていて、見ているだけで私を不快にさせる。ただでさえ、暑くてじめっぽくて汗臭いこの空間を流れなければいけない自分に嫌気がさしているのに。
 互いに、無視しあう。
 彼は私にぶつかったことに気付かなかったのかもしれない。あるいは、単に立ち止まって謝る価値がないと思ったのか。
「……暑い」
 スポーツバッグと学生鞄で両手がふさがっていて、扇子なり下敷きなりを取り出して首筋をあおぐこともできない。熱気が服の下にこもるだけ。あたまの中をゆでるだけ。
 せっかく夕焼けを満喫してやろうと思って街に繰り出したらこれだ。
 イライラする。
 無駄は嫌いではないけれど、やっていることがこうも無価値に思えると、周りを片っ端から捨ててしまいたい衝動に駆られる。
 トラッシュボックスの中に。
 赤光を取り込んでは捨てる。
 空気を吸い込んでは捨てる。
 雑踏を見尽くしては捨てる。
 ……見渡せるのは、変わり映えのしない雑踏だけだ。
 夕日も何もあったものではなく、単にストレスを溜めるだけの散歩。――それはどれほど無意味なことか。
 スポーツバッグを左肩に提げなおし、繁華街を逆流する。来た道を戻れば戻るほど、よどんだ空気は薄くなっていった。
 繁華街の門はどことなくくたびれて見え、その下をくぐる人たちもそこはかとなく疲れて見える。額は汗ばみ、やや長く伸ばした前髪が張り付いて気持ちが悪い。
 ふ、とチラシが一枚飛んできた。顔の前へとひらりひらり舞い来る色紙を、左手で受け止める。中身は見ない。裏は白く、おそらくはパチスロ屋のセールスだろうと思った。
 左手を振り払う。ざあ、とかすかに音が流れ、ぬるい風に乗って、チラシを構成していたさまざまなものは――インクの染み込んだ紙や紙を構成していた繊維のような残骸と化して繁華街の方向へと飛び散っていった。


   †


 繁華街を出て五分も歩いただろうか。私のよく知る少年と出くわした。
「早いんですね、帰るの」
「……キミ。人の家路に首を突っ込むものじゃないよ」
「それを言うなら恋路でしょうに」
 くつくつと笑む彼は、カラーコンタクトレンズで瞳の色をダークブラウンからもはや黒へと沈めている。何でも、「瞳の色素が薄いわけじゃないけど、目を光に晒したくない」そうで、「サングラスも嫌だ」ということらしい。
 たぶん、それは嘘の理由なんだろう。
 きっと彼は――彼の持っている“名前”の通り――真っ赤な目をしているのかもしれない。
「久住優奈先輩。……そういえば、二ヶ月前の『事件』から何か目新しいことありました?」
 二ヶ月前。彼――数少ない(と言うよりは、ほぼ唯一の)異性の友人にして後輩、日阪暁嗣と知り合ったとき。
「ん……ないよ。少なくとも、私の周りでは、だけど」
「そうですか」
 ま、頻繁にあっても困るんですけどね。日阪はそう言って苦笑した。
「……少年。私は、早く自分の日常に戻りたいの」
「……少年て。たかだか一歳違いなのに」
「これは親友のPLOマニアにも言ったから今日通算二回目だけど」深いため息を挟んで、「誤解を招きそうな発言はやめなさい」
 日阪が笑う。
「それにしてもPLOとはね。見に行くんですか?」
「時間があればね。まあ、人ごみと暑さがダイキライな私が行ったところで楽しめないかもしれないけど」
 まったく、それが最大の問題だ。パニック・リリック・オブセッション・チーム――要は公式ファンクラブ――の津波が押し寄せてくることは間違いないのだから。そんな中で人酔い防止の閑静な場所が常備薬な私がいたら、押しつぶされるどころか先に帰ってこれなくなる。
「そう――楽しめないかもね。何てったって、私たちはもう違ってるんだから」
 それじゃ、と日阪を置いて私は帰る。
 違っていること。それは、きっと私たち以外には分からないかもしれない。
 特別すぎる《名前》――徹底的に、私たちは世界から区別されているのだ。


   ――――――


 暗闇に連れ込まれてどれほどの時間がたったのか分からない。
 繁華街の路地裏だということは分かった。
 背丈の高い、がっしりとした体つきの男が四人。全員が高校生から中学三年程度の体格で、輪を作って立っていた。
「……ケッ、三時間経って儲けは結局諭吉一枚かよ」
 夏だというのに長袖のジャンパーを着ている男がそう吐き捨てた。言葉が捨てられた先には、やや小太りの男が一人うずくまっている。見るからに瀕死に限りなく近かった。
「兄貴、そろそろやめたほうが……そいつ、このままだと死にますって」
 また、足蹴にされる。また。これで何回目か。
「知るか。……夏休みには秋葉原にでも行ってみるか? この手の人種には事欠かないだろ」
「…………」
 この手の人種に括られた少年――おおよそ、高校生程度の背丈だろうか――が、静かに長ジャンの男を見返す。暗闇の中でははっきりと分からない。男たちには全身に刻み込んだ痣や傷や痛みは見えなかった。
「狩りは止められねえな。ノーリスクハイリターン。いつまで経っても止められないギャンブルってのは麻薬に似てるが、ちょうどこれがそうじゃねえか」
 分かってるなら止めろよ、と取り巻きは言わない。言ったら次のターゲットは自然と自分になるからだ。この少年は、つまりそれだけの力を持っていた。
 番長だとか、不良のリーダーだとか。そういう言葉で表現される人種。決して、表舞台で頂点にはいられない。
 また、足蹴にした。まただ。もう数え切れない。覚えていない。
 サンドバッグは肉色の匂い。リアルな湿った感触に酔いしれた。
 歪んでいる。
 こいつらは、歪んでいる。
 こいつらの、言葉は――歪んでいる。
 言葉。……言葉。
 自分の思いを表す方法。他人の容姿を表す方法。
 自然の法則を表す方法。科学の真理を表す方法。
 倒れ伏した少年の脳に、澱みなく流れる物の名前。
「……っく」
 長ジャン男が、少年を見下ろした。
「あん? まだ出す物がありますから見逃してくださいってかア?」
 明らかな侮蔑。
 出す物? ――――ある。
「…………っくく」
 言葉。言語。それはつまり、世界の全てを表現しうる唯一、かつ絶対の手段。
 数式ですら言葉の集まりだ。言語の結晶だ。
「…………っくくくく…………!」
 少年は、理解する。
 世界を全て言葉で表現することができると言うなら。
 だれそれが何をする、という未来日記を書けるはず。
 まるでハーメルンの笛吹きのように、子供たちを操る事だって。
 その方法の《名前》を。
「テメエ……何を笑ってる!?」
 男たちがざわめく。けれどもう、――――遅い。
「――《お前たちが、跪く番》」
 人間の声帯では成しえない、奇妙な余韻を持つ言葉が響いた時には、状況が一転していた。
 取り巻きが三人。その全員が、長ジャン男を取り囲む。
 その目に、瞳に、顔におよそ自意識というものは読み取れない。
「な、にを……テメエら」
 一瞬で立場が逆転する。怯えた顔で吠える男に、少年はもう目もくれない。
 ただ短く、一言だけ。
「――――《やれ》」
 微妙な韻律。
 取り巻きが固く握った拳を振り上げ、それを思い思いに――振り下ろした。
 鼻っ面、左脇腹、右肩甲骨。骨は折れない程度の強さ。屈強な長ジャンが一発でよろめいた。
 もう一度、取り巻きたちが拳を振り上げる。
 まるでゲームのNPCのようだった。少年の言葉に従ってだけ動く。
 鈍い音がこだまする。左頬、左肩、右肺。骨よ砕けろとばかりに殴った。
 くの字に男が身体を折る。そこに、顔を殴った取り巻きが膝蹴りを叩き込んだ。鳩尾への痛撃。力に加減も下限も上限もない攻撃は、男を宙に舞わせコンクリの壁に叩きつけ、二段の衝撃で吐血させる。
 ずる、とジャンパーが擦り切れ、わずかに壁が色付く。壁にもたれるようにへたれこんだ男が、力なく少年を見返した。
「オマ、エ……なに、を」
「三時間だったよな、あんたらが俺をいいように弄ってた時間ってのは」
 少年は、問いには答えずに返す。
「俺を何回蹴ったっけ。殴ったっけ? 十、百、それとも千? 今なら思い出せるかもしれないけど面倒。とりあえず、どれくらいのやり返しが適当だと思う? 俺をあんだけ嬲り者にしたんだ、分かってくれるよな?」
 弱々しく睨み返す男の視界を、取り巻き――もはや少年の手札に過ぎない三人の少年が塞ぐ。
「それに何度も何度も言葉を吐き捨てやがって。言葉を大事にしろよ。無限の可能性を持ってるのに……ずっと似たような言葉で人を馬鹿にしやがって。腕っ節のために手に入れたのはボキャ貧かよ、笑えないなあ。リアルINT低いんじゃねえの?」
 その力ある言葉で男の知性をこき下ろし。
 腹に三発。人体にもともとかけられてあるリミッターを外した蹴りが突き刺さる。
 傲慢に笑い、尊大に嘲り――少年が、嗤う。
「楽しいか? ……俺は楽しいよ」
 つい数分前まで地べたに這いつくばっていたとは思えない態度で、
「なあ、俺はあんたらをどんだけ責めてヤりゃいいんだ?」
 答えは、肉を打つ湿った音。
 ――――彼らに翌朝があったかどうか、彼は知らない。





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