君が知らない間に大人は子供の絵図を描く。
 絵具は自由。けれど、子供はレールの上に。
 逃げられない夜の季節は醒めない夢のよう。
 そして逃げ出した後には褪めない夢のよう。

 さあ、
 キャンパスに描かれた君の絵図をぶち壊せ。


―――― melodies / Blue Diagram
(or Breakdown)




    ◆


 日阪暁嗣の家は、学校に行く際の近道として繁華街の路地裏が使える位置にある。空気は汚いしゴミで溢れかえる狭い道を誰も通りたがるわけがないので、よほど時間がないとき以外は日阪自身も通らない。
 その日は、その『よほど時間のない日』だった。
 始業は八時、現在時刻は七時四十五分。近道を通れば十分で済むが、通らなければ二十分かからない程度で学校に着き、アウトだ。彼の通う高校は遅刻者に対するペナルティが非常に重いため――一時期、強制でジャージ着用などと言う話も出た――何としてでも時間内に学校に着きたかった。
 走る。平凡な細道を通り抜け、路地裏まで二分。学生鞄に詰め込んだ教科書がごとごとと揺れている。コンクリートブロックを積み上げた塀が通り過ぎ、無機質なビル街の麓に辿り着く。
 空気が、何か違うような気がした。
 頭上を覆う影は、ツインルームが比較的安い、ある種毒々しさを孕んだホテルのもの。ルートは間違えていない。
 細い路地裏を駆ける。ゴミはそこまで落ちていない。時折何かの液体の匂いや注射器や錠剤のパックが落ちていたりはするが、走るのに邪魔になるほどでもなかった。
 漂う空気の色が、少しだけ変わった。影色から、わずかに光を受け入れた霧のような少しだけ明るい色。
 漂う空気の香は、日常で世話にならない味がした。嘘をついているわけではなく、焦っているわけでもない。
「……」違和感。
 辺りを見回した。ホテルの正門からは死角になる場所。
 視覚を刺激する、かすれた赤の天然着色料が目に入る。
 ――――血色の絵の具でペイントされた、汚れたコンクリの壁。
 上方向へと散らばる斑に、その根元を求めた。それは壁にもたれかかっていて、動く気配は無かった。
 擦り切れた長袖ジャンパーを着込んだ、筋肉質な男。髪を赤く染め、両耳にごてごてとしたピアスが光っている。まるで疲れ果てたかのように両手を横に投げ出し、両足は体育座りをかなり崩した具合に広げられている。腰を下ろして、ワイルドにタバコを吸っているかのような姿勢だった。
 その背中から広がる、肉色に紅を加えたような汚れ。
 その口元から垂れる、濁った赤の天然色。
 手首から広がっていれば、単なる自傷自殺(リストカット)で終わっていた。
 ――――異常。
 二回目に見た死体。その瞳には、自意識と言うものがない。いや、息はある。辛うじて死んでいない。生きているだけの、痛んだ新鮮な身体。
 日阪が悲鳴を上げることはなかった。
 携帯電話を取り出すことでその行為に代える。
 ……この場合、どっちが先なんだ? 警察か、救急か。


    ――――


 『名は体を表す』という言葉がある。
 名前はそのものの本質をよく表している、という意味だ。
 例えば、「祐子」という名前の人が、人間であれば即死確定の交通事故に、間一髪巻き込まれなかったという事例。「祐」という漢字には「神様が救いの手を差し伸べる」いう意味がある。その人は、まさに「神様が手を差し伸べたが故に」事故に間一髪巻き込まれなかった。つまり、神様が救いの手を差し伸べる人間だったのである。
 類友だとか、火のないところに煙は立たないだとか、そういうレベル。偶然ではなく、必然として起こる奇跡。
 人の拙い命名行為が、運命に干渉するほどの結果をもたらすなら。
 『世界』だって、その真似事をすることは容易い。
 『世界』は私たちに、親が授けてくれたものとは別に《名前》を与える。与えてくれた。人間に比べれば神にも等しい『世界』――単純に、神様だとか天啓だとか言い換えられるのかもしれない――が私たちに貼り付けたラベルの場所は、親がくれた文字列の真上。ヒトの想いを籠めた命名行為を、顔がない何かが命銘行為で貼り潰す。
 代わりに私たち――《名前有り》が手に入れたものは、世界の主役になれるだけの力と、人の想いを否定する非人間的な力。
 世界の記録に書かれた、私たちの新しい《名前》。私たちは、その《名前》にちなんだ異能を与えられる。
 例えばの話。『ストレージ』という《名前》だったら、何かを保管するチカラを貰える。『ゼウス』であれば、ギリシア神話の主神のように雷を操る力だ。
 連想しやすい命銘。『世界』は、私たちの魂に気まぐれでそんな銘を彫り込んでくれる。
 誰も必要だとは言わないのに、顔のない姿で良かれと思い。
 神様の余計なお世話。反吐が出る。
 だけど私たちは、その舞台の上で踊り続けないと生きていけない。
 止めるのは簡単。手首を引き切ってしまえばいい。
 だけど。
 私たちは、生きていたい。
 どんなに、どれだけ傷ついてしまっても。
 命ある限り、友達と一緒に生を謳歌する。


    ――――


 真っ暗な部屋を切り取る、長方形の液晶光。
 デスクトップ型パソコンの前には、まるで生首のように少年の顔が照らされている。脂肪がやや多い顔に、首から下は少し太った高校生の体格。血糊がのっているわけではないが、脂はノッている。そういう顔だった。
 今が旬。今が全盛期。今が絶頂。表情を動かさず、ただ唇を歪めて嬉しさをこらえているようだった。
 ディスプレイには、何かの映像が絶え間なく流れている。
 ――教室だ。教室と言っても、少年の通う公立高校の、彼自身の教室で、別に着替え中でも授業時間でもない。朝っぱらから教室を使って口外できないコミュニケーションを取る生徒もいない。ごく平凡な、休み時間だった。
 昨日、路地裏で操った少年のうち一人を使い、自分の持つCCDカメラを教室に仕込んでおく。ネットに繋いでパソコン側から操作できるモデルなので、少年は気付かれることなく教室をその目で舐め回していた。
 昨日のことを思い返す。蹴られて蹴られて蹴られて、果てに自分が目覚めた超能力――いや、違う。あの時に得たのは方法の《名前》だ。蹴って蹴って蹴ってきたあいつらを逆に操り、丸裸の王様を蹴りたくる方法。
 ハーメルンの笛吹きは、ネズミ退治の報酬を払わない街の大人たちに怒って、その町の子ども達を笛の音で操り、連れ去ってしまった。
 少年が得た力は、自分の『言葉』を通じて、子ども達を――いや、大人も含めて人間を操り、自分の人形にしてしまえるくらいの力だ。
 世界は、少年に貼り付けた名前を《ハーメルン》と言う。
 この力は非常に便利だった。操る人間には適当なコマンドを打ち込んでしまえば勝手に動いてくれる。昨日のガキ三人然り、今日操った両親然り。両親には「少年に干渉しない」というコマンドを与えて、朝からずっと息子のいない日常を過ごしている。しかも自然に回っているから少しだけ妬ましい。
 俺には、そんな相手はいなかった――少年は心の中で声を殺す。
 だから、自分の力を使ってそんな人を作ろうと思う。
 カメラを仕込んだのは、目当ての人がいたからだ。
 新庭一咲。パニカルなんとかとかいうロックバンドの熱烈なファンで、教室ではその強烈過ぎる個性で一歩引かれている――ちょっとしたアウトロー。しかし外見を取ってみればクラスでも一、二を争うくらいには綺麗だし、人当たりもいい。
 カメラの映像をズームする。彼女の席あたりにレンズの向きを合わせてある。彼女の特徴的な笑顔がいつでも見放題だった。
 クリック。解像度を上げる。
 クリック。望遠ズームをさらに拡大。
 クリック。マイクの感度を上げる。
 ……映像のピントが合う前に、他の女子が映写範囲を背中で隠した。ズームを一度引き、誰かを確認する。後姿はさほど特徴のあるものではない。せいぜい、肩甲骨のあたりまで伸ばした綺麗な黒髪程度。
『ねえ……なんかさ、見られてる気がしない、一咲』
『え? やだなあ優奈。気のせいだって。それよりも明日の夜から場所取り行こ? もしかしたらドラムの鷲見クンのサイン貰えるかもよ。優奈ファンだったじゃない』
『面倒。よかったら全員分貰ってきてよ』
『えー、だから優奈はファン魂ってのをちょっと磨きなさいって。サインとか、本人に目の前で書いてもらえるから嬉しいんじゃない!』
 優奈――久住優奈か。教室の中で、何事も面倒そうに構えている女。しかし、カメラの位置まで割り出したのか。
『無駄なものって結構気付きやすいのよね……』
『出た、ごみくずスイーパー優奈、略してGS……』
『そんな称号嬉しくない!』
 カメラに、少しずつそいつの顔が大写しになっていく。形のいい眉に白い肌、鼻は少し低いが顔の形は整っている。唇は素っ気のない色で、表情はあまり色が濃くない笑いだった。カメラに近づいてくるにつれ、彼女の眉がつりあがっていく。
『これ、か』
 カメラの位置は手先の不良に任せたから、どこにあるかは少年も知らない。
 レンズが白い掌に覆われ、画面が暗くなり――――
(要らないものはゴミ箱へ。誰か知らないけど、正気?)
 マイク感度を上げていたおかげで、その囁きが聞き取れた。
 瞬間。ざざざざざ、ざざ、と音を立てて、送られてくる映像は消滅した。





← Prev. index Next. →