変身は完璧だった。
 黒い、少し丈の短い薄手のガウンを白いTシャツ――PLOのロゴが大きくプリントされている――の上から羽織り、ダークブラウンに近い色を基調としたタータンチェックのプリーツスカートをチョイス。オーバーニーの黒いソックスを身に着けて、新庭一咲の気分はもうお祭りだった。
 見た目はTシャツ以外はどこにでもいそうなカジュアル娘。
 ただし、背負っているものは宿泊用のボストンバッグだった。
 化粧は少し薄め。一応セットは持ってきているし、寝袋も完備。会場のシルフズガーデンは水周りの整備が完璧に成されているので、気兼ねなく使える。
 ――そもそも、泊まり込みで来るファンなんていないでしょ。
 細い革バンドで左手首にはめた腕時計に目をやる。午後九時三十分のシルフズガーデンは、時々アンプで増幅された、ギタリスト御坂雅之のソロパートが外に漏れ出てくる。御坂は完璧主義な人だったよね、と一咲はPLOのメンバーを思い返す。
 日本の生んだ極上のヴォーカル、桜庭宗司(さくらば そうじ)
 完璧主義のギタリスト、御坂雅之(みさか まさゆき)
 博学なベーシスト、高木俊史(たかき としふみ)
 とにかく熱い作詞ドラマー、鷲見幸福(わしみ ゆきとし)
 作曲担当キーボーディスト、塚原明哉(つかはら あきや)
 最近になってメディアに出ることが多くなったけれど、初期のころからのファンはかなり多い。今のPLOTのメンバーの四割は最初期のころからずっと活動を見ているというから驚きだ。それでも、ファン層は固定されきってはいない。
 今のファンの多くを占めるのは高校生だ。感傷的な歌詞や情熱的な曲想、言葉にできないレベルのインパクトを与えてくる作品の雰囲気。心の琴線を掻き鳴らして止まない、ノンストップのミュージカルファイター、それがPLOというロックバンドの印象。最近はかなりの量を一回のライブで歌い続けるため、熱中しすぎたファンが熱中症になるなんてこともニュースになっている。それだけの魅力を感じるのだ。
(ダイアグラムを破り捨てよう、決定済みの未来予想図……)
 一咲は、特にお気に入りの歌詞をギターに合わせて口ずさむ。
(縛らないでよ 僕らの夢を……)
 ブルー・ダイアグラム。御坂が演奏しているギターソロも、この曲のものだ。PLOをメジャーで大ヒットさせた傑作。そのギターに吸い寄せられるように、一咲はボストンバッグを持ったままに、シルフズガーデンのライブステージへの扉に左手をかけた。
 油がさされていたのか、扉は楽に押し開けられた。するりと身体を滑り込ませると、演奏の迫力が一気に増した。
 客席が円形に取り囲む、石畳のライブステージ。
 白亜の舞台は、過剰なまでのホワイトライトで照らされている。一咲のいる第三入口から――直線距離で二十メートルはある――でも、御坂雅之が目を閉じて演奏しているだろうことが見て取れた。完璧に極めるも何も、目を閉じたままノーミスで演奏できるまでやり続けるんだろう。職業として音楽を選んだ人の、凄まじいまでのこだわりだ。
 一咲はボストンバッグを下ろして、そのファスナーを開いた。会場の何箇所かに仕掛けられたアンプが発する爽快な調べが、ライブステージという環境で反響して何倍にも何十倍にもその迫力を高めていく。
 増幅された電子の音ですら、魂を乗せて流れている。
 二番のサビが終わったあと、次のメロディに移るまでのギターソロがまた始まった。ネックに触れる左手が滑らかすぎるくらいに動き、ピックを握る右手は止まることを知らない。
 止まらない、止まらない、そして終わらない。
 約二十秒のギターソロ。
 フィニッシュはBのコード。
 バチン、と。ライトが消えた。
 かすかにドラムスティックを叩く音が聞こえる。
 フィルイン。スネアとバスドラム、ハイハットとライドシンバルが織り成す打楽器の調和音。
 キーボードがオーバードライブギターの音色でイントロを作る。
 ギターが合流。C、G、Am、……最後のBが振り下ろされた。
 ベースが絶え間なく動く。ボストンバッグに手を入れたまま、一咲は動けないでいた。
 ヴォーカルが、ついに入る。
 ――青く焼きこまれた街の憧憬、
    決まりきったカタチ壊したくなる。
 ヴォーカル桜庭の声は、疾走感と哀傷に満ちている。タイトルはブルー・ダイアグラム。一咲が好きな曲だった。
 ほんの少しのブリッジパッセージ。
 強烈なBのコード。直後、
 ――ダイヤグラムを破り捨てよう。
    決定済みの未来予想図、
    縛らないでよ僕らの夢を――。
 最強の攻撃力を持つ歌詞がフィールドに炸裂。
 思わず、目に涙がにじんだ。……感動の涙、なのかな?
 目元をぬぐう間に、サビが終わる。ただ、二番を飛ばしてギターソロへ。
 暗闇に、憂鬱を振り払う音楽が響く。
 ギターが鳴らす、Bのコード・スケール。
 さっきのように。止まらず、流れ続ける。
 ――最後のGスケールが終わり、Bのインパクト。
 ブリッジパッセージを挟み、ヴォーカルの息遣いがかすかに響いた。
 後は、二回分のサビの繰り返し。いつしか、一咲も歌詞を口ずさんでいた。音がずれることなんてありえない。この曲だけは歌いこんで、カラオケでも満点が取れる。
 ――走り続ける僕らの恋よ、
    生み出してくれ切なく響く、
    褪めない夢で魅せて――――。

 最後の発音が終わる。後はアウトロのギター、キーボード、ベース、ドラム、どれもが調和して進んでいく。
 最後のBが、静かに途切れた。
「ありがとう!!」
 ヴォーカルの桜庭が叫んだ。
 そして、途切れていたライトが明るさを増して蘇る。
 眩しくて目を開けていられない。
 何より、一咲は生演奏を――それも自分だけで聞けたことに気がどうかなっていた。
(え、もしかしてあたし何か悪いこと……)
 立ち上がれない一咲の肩を、誰かが叩いた。
「や、こんな時間から見に来てくれるなんてね」
 フランクな声だった。……鷲見幸福。
「全く予想外予想外。ギターソロの練習する、って雅之が言ってなきゃ気付かねえよ」
 この声は塚原明哉だ。
「運がよかったって事でいいんじゃねえの明哉。オレだって嬉しいし」
 この人は御坂雅之だったと思う。
「いいじゃないですか。……女の子囲んで盛り上がるほうがどうかと思いますよ」
 丁寧な言葉遣いは、高木俊史の特徴だった。
「ま、そんなとこだな」
 立ち上がると、目の前には桜庭宗司が立っていた。
「PLOのライブにようこそ、お嬢さん」
 差し出された手に、一咲は何も考えずに飛びついた。


    †


「あー、もう最高……!」
 まさかPLOの全員と握手してもらって、さらに全員分のサインまで(各個人一人ずつ&全員のPLOロゴ入りサイン)貰えるなんて夢にも思っていなかった。明日に核が降るなんてことがあっても笑って許せそう。
 役得なんてレベルじゃない。たぶん、二度と経験できないと思う。
 心はずっと弾みっぱなし。今日の夜は眠れそうになかった。
 ボストンバッグに、色紙を傷がつかないようにバインダーに入れて直し込む。そしてボストンバッグから寝袋を取り出して、眠る場所を確保しようと思った。PLOは近場のホテルに泊まっているとはいったけれど、ついて行ったら大ニュースである。一咲がついて行けるわけがなかった。
 『PLO、女子高生に惚れ込んだ!?』などという週刊誌のスキャンダラスな記事のタイトルを想像して、顔が熱くなった。
 寝袋を広げると、後ろから肩を叩かれた。
 妙にひんやりとしていて、妙に厚いものに触られた感覚だった。
 ガウンを貫く寒さが背筋を駆け抜ける。
 首がゆっくりと回る。――振り向きたくないのに!
 体がゆっくりと回る。――振り向きたくないのに!
 百八十度回転した先に、一人の男が立っていた。
 背に満月を抱えた、横暴な笑みを浮かべている。
 視線を、上げていく。――あたしの意志じゃない。
 まるで誰かに操られているかのよう。
 やや小太りな男の顔がはっきりと見えた。
「あ――――――」有本?
 一咲の疑問は、答えられることはない。

「――――――《はじめまして》」



 銀月輝く夜空の下で、どさりと音がこだました。




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