誰もが夢を追いかけている。
 誰もが愛を求めている。
 だけれど誰もが人を傷つける。
 だけれど誰もが人を壊していく。
 そして誰もが旅立ち、罪を犯して還る。

 過去の傷跡を、忘れて。

 だからせめて。
 この現実で、僕は過ちを償い続ける。

―――― coda / Realoffline
(or Ragnarok's Ordeal)


    ◆



 濁った油の匂いが滴り落ちる。
「……、……違う」
 視界が少しずつ回復する。暗転した世界がわずかに光を取り戻し、風景は歪む。
 廃工場、のようだった。機械類は塗装が剥げ落ちたように退廃し、床はほこりと油汚れにまみれていた。照明は不安定な裸電球がいくつかぶら下がっているだけで、稼動していた頃の勢いは一切感じることはできなかった。
「もう、……んだ、俺は」
 あの男に気絶させられ、たぶん私はこの廃工場に連れてこられたのだと思う。不覚を取った。まさか背後に回りこまれているとは思わなかったし、力も並外れていた。……強烈に側頭部を殴りつけられ、よく首の骨が折れなかったと自分の事ながら感心する。
 それと裏腹に、日阪がどうなったかと思い寒心する。
 目の前に、誘拐犯はいる。
「俺は――――」
 あの男は、緩いウェーブのかかった黒髪に右手を這わせている。……緩いウェーブのかかった黒髪。見覚えがある。その頭の上に、マンガやアニメで時折見るような、レースのカチューシャが載っている。
「なあ、」
 そこでそいつは、私の方を見た。
「……なんで、あんたは俺に従わない?」
 小太りだったはずの身体は、少し見ないうちにわずかに膨れていた。比例して筋肉もついているように思えるが、長袖に覆われた姿でははっきりとは分からない。
 それにしても、従わない、ってどういうこと?
 男が、私に左の掌を見せつけた後、握り締める。
 首元で、モーターの稼動音のような音がかすかに響いた。
 圧迫。息が苦しいよりも、頸骨(けいこつ)を責められる感覚。
「従えよ。俺は世界に選ばれたんだ。あんたが俺に従うのはあくまで自然なことだろ?」
 主張は滅茶苦茶だった。
 首に何か仕掛けられていることを教え込まれた私は、そこでようやく両手首が後ろ手に軽く縛られていることに気がついた。この男は機械を遠隔操作できるのか。その力を応用して、観客を催眠術にでもかけた?
「ああ、名乗った方がいいのか」
 黒髪を撫でていた男の右手が、離される。
「《ハーメルン》だよ。言わなくてももう分かるだろ」
 左手を握り締める。首が、絞まる。私の首にはめられているのは、首輪状の何かか。
 ふと、ヨーロッパで使われていた処刑道具が頭をよぎった。
 ガロット。
 ネジを回すことで首を締め上げ、頸骨を砕いて殺す死の首輪。確かそう遠くない過去までスペインで使われていたはずだ。それを、モーターでネジを回せるように改造していたらどうだろうか。
「……」苦、しい。
「……それ、が、一体、何に、なるって……言うのよ」
「俺は、」
 誇らしげに、ハーメルンと名乗った男は言う。
「……そう、やっと心を誰かに預けられる」
 誰かを愛することへの陶酔がにじんでいた。
「親なんて自分の事に夢中すぎた。俺にくれたのはモノだけだ。俺を愛してはくれなかった。俺もあいつらを愛せなかった。
 だけど、もう違う」
 ハーメルンは右手を高く上げる。
 ざ、と揃った足音。
 日阪がなぎ倒していた観客が揃い踏みしていた。
「俺は、俺のやり方で愛してもらう。俺のやり方で、ここにいる俺の誰もを愛してやる」
 頸(くび)が、絞まる。呼吸もままならない。
「……なあ、新庭」
 その言葉に、冷たく脈が流れた。脳から血が落ちていく。
 答える声はない。ただ、カチューシャをつけた人影が顔を上げた。
 自意識に欠ける瞳。表情の抜け落ちた貌(かお)。
 生気を失った眼光に、思考放棄した容姿。
 露出の少ない、ロングスカートとエプロンドレス。
 頭に載った白いカチューシャはホワイトブリム。
 絵で見たことだけはあった。ヴィクトリアン・スタイルとか何とか言う給仕服。
 着ているのは――新庭一咲。
 私の、親友だ。

    †

「俺は――愛がほしいんだ」
 ハーメルンは子供のように笑って言った。
「……何、を」
 苦しい。首輪の痛みに私は縛り付けられる。
「笛吹きはネズミ退治の報酬を出し渋ったハーメルンの街の子供を連れ去ったよな。俺は、誰もの心を連れ去ってやりたい。……それで、幸せに笑えるなら」
「絵空事を、言わない、でよね」
 首を動かせなくとも、失笑が口から漏れた。
 モーター音がして、頸がさらに絞められていく。
「あなたが、大事なものを……盗んでいくわけじゃ、ない。自分の意識まで奪って、心をあなたに向けさせて……そうして、得た、愛情に、何の価値が、あるの……?」
 視界が明滅する。窒息よりも先に頸骨を砕かれるよりも先に、痛みで死にそうだった。
 痛み。心の痛み。愛も憎しみも、痛みを抱えられる心にある。痛みを共有して、押し付けて、与え合って、奪い合って、それでやっと感情は完成する。
 それが私の痛み。
 ハーメルンの完成することなき、歪んだ恋情。
 ハーメルンの顔が怒りに歪む。
 無視した。
「じゃあ、何で……一咲を、そんな風にしたの?」
 本当に愛を与えたいなら。
 友達付き合いから始めて、最後に告白すればよかったのに。
 無言で告白して、勝手に心を抜き取るなんて、なんて――。
「……黙れ」彼の返答は、モーターの音。
「黙れ、黙れ、黙れ黙れ黙れ黙れ――!!」
 激昂しているのか、モーターは音を鳴らしただけで空回りし、私の頸を絞めることはなかった。
 ハーメルンに跪く一咲の姿が網膜に焼き付いて離れない。友人の人格を少なからず歪めたこの男だけは、許せない。
「俺は、俺は、俺は――――」
 ハーメルンの表情が、切り替わる。
 激昂から、超低温の刃の笑みを浮かべ、言った。
「――――――――《王になる》」
 激震が、廃工場を襲った。
 がらがらと、天井にしがみついていた鉄骨から埃がばらばらと落ちる。
 王になれば、全ての臣下は王に忠誠を誓う、か。
 ハーメルンという《名前》を思う。
 ハーメルンの笛吹き――グリム童話で有名な、笛吹きの物語に由来することは間違いないだろう。正確にはハーメルンは地名ではあるが、ハーメルンの笛吹きの英名であるパイドパイパーでは格好悪いと世界が思ってくれたのか。
 笛吹きは、ネズミ退治の報酬を断ったハーメルンの街から、その街の子供たちを連れ去った。連れ去ったということは、笛の音でもって子供たちを操り、そしてどこかへと消えていった。実際の史実にもあった話で、現代の解釈では子供たちはドイツのヴェーザー川(笛吹きがネズミを誘導した川でもある)で溺死したとか、当時盛んだった東ヨーロッパへの植民に行った、などというのが有力らしいが――これはそこまで重要じゃないと思う。
 いや、待て。
 ヴェーザー川で溺死した……?
「覚悟しろよ久住優奈」
 言葉で笛を吹く彼は、冷たい目で嗤う。
「俺に逆らう無駄は俺の世界に必要ないよ。――ただ、欲しいものだけがあればいい」
このままでは動けない私を無駄と断じ。
「《言葉の海で、溺れ死ね》――!!」
 みしり、と嫌な音がした。
 ごおぉぉぉ――――と。重圧が耳に押し寄せる。
 天井から埃が降る。
「《支配完了》。《降り注げ》」
 その言葉と同時に。
 鉄骨が、落ちる。
「ぁ――――」
 鉄骨が、落ちてくる。
 気付かないうちに、唇がかすれた声をあげる。
「……私は――――」
 衝突。

 ………………






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