残音 / Departure

 少年――有本秋晴は、朽ちた工場の中で意識を得た。
 久住優奈との、あまりに鮮烈な殺し合いに敗れ、首を刎ねられたと思っていたのに、前後の記憶もはっきりと残っている。仰向けに寝そべったまま左手の甲をつねると、よじれた痛みが手の皮を刺した。
「俺は――――」
 声を出そうとした。さっきまで自分が使っていた、何もかもを言葉で操っていた「俺だけの力」。世界に選ばれていた自分は、けれどもうそんな言霊を繰ることはできなくなっていた。
 自分のしたことへの後悔よりも、絶望が強い。
 親に見捨てられ、世界に見捨てられ、希望の糸だった「彼女」は久住優奈が連れ去っていった。自分に残されたものは何もなく、さっきより――久住と廃工場で殺し合う前よりも大きく減った脂肪の量ぐらいしか変化はない。前髪は視界を塞ぎ、両足は重くて動けず、首は気が狂いそうなほどに痛かった。
 現実だ。
 自分が死んでいるのか生きているのかすら曖昧だけれど、ここが現実だということだけは分かった。
 痛み。
 今までの有本にとっては、痛みは現実の死神で、自分から全てを失わせるものだった。
 けれど、目覚めた今は少しだけ変わった。
 現実を自覚させる痛み。
 それは、今まで何もしていなかった、現実離れして、現実にあるものを手に入れようとした自分への罰だ。
 現実――リアルオフライン。
 オンラインという仮想空間ではなく、オフラインという自分のいるこの世界で、現実を見据えて生きるということ。
 苦痛はあるだろう。けれど、耐えなければ何も変われないということには気がついていた。
 両腕に全力を込めて、動かない上半身を何とか起こす。両腕に感じる苦痛と、腹に響く優しい痛み。
 俺は死んだのか、そうでないのか。
 久住は確かに「俺」を殺したのだ。
 けれど、彼女は「俺」を殺したのではなく、有本秋晴という人間に、世界が貼り付けた《ハーメルン》という名前を破り捨てただけだったのだとしたら。
 まだ、自分は変わることができる。
 ――せめて、あなたがもう一度やり直して、愛を知れることを祈っているわ。
 久住の言葉が胸を打つ。
 そう、やり直すのだ。
 鉛のように重い下半身を無理矢理動かして、ゆっくりと立ち上がる。
 現実は苦痛に満ちている。
 けれど、人間は現実からは逃げられない。
 なら、立ち向かおう。
 久住が連れ去った愛。
 有本が願っていた愛。
 すべてのラインを引き直して。


 少年は立ち上がる。
 そして、愛を知るために、現実をまた歩き出した。






← Prev. index Next. →
※次は保管庫版の後書きに飛びます。
 文芸誌版後書きはこちらから。